真の民主主義教育のあり方を求めて vol.601
下の記事は私の友人のHRクラスの実践になります。
おそらく苫野さんと工藤さんのインタビュー著書『子どもたちに民主主義を教えよう』が参考になっているとも感じたのですが。
この実践は民主主義教育そのもの。
実際にこのHR運営をみてみての感想などをまとめていきます。
ここでやるか、学級目標
この実践、まず面白いのは学級運営の根幹をなすであろう、学級目標を年度の終わり間近であるこの時期に行うということ。
多くの場合、学級目標というのは年度当初のクラス立ち上げの際に決めるものです。
それを持って1年間の学級での指導に充てるものなのですが、このクラスではどうしていたのでしょうね。
正直、学級の風土や担任陣の連携、指導の土台さえできていれば学級目標はなくともなんとでもなるものなのです笑。
そもそも、まだ顔と名前の一致すらしていないほとんど他人の状態の中で、どんな学校か学級かも手探り状態で、共通認識の学級目標を作り出すことの方が無理があるもの。
おそらくこの学級もそうだったのでしょう。
学級目標がなくとも仕上がっているほどのクラスだったからこそ、今回の実践ができたとも言えるのかもしれません。
そしておそらく、この工藤流とも言える誰一人見捨てない教育「全員が同じ方向に意識を向け、全員に等しく発言権があり、多数決を一切とらない誰一人見捨てないことを前提」についても浸透するほどの教育があったに違いがありません。
そうでなければ、そもそもの最上位目標を定めるという意味を見出せていない子がもっと出てくるはずだからです。
やらない道も備える、生徒任せ
どうしても我々教員は準備したものを全てしっかりと披露したくなる病があります。
その分、生徒のことを思って準備しているのでいいことではあるのですが、当日には自分の準備したものを実践するのに必死になって生徒目線でなくなってしまうのです。
せっかく生徒のために用意したものが、結局先生のためになってしまうという最悪の循環です。
この実践の面白いところは、そもそものやるやらないの選択肢自体が生徒に与えられているところ。
「やりません。」と言われれば、そこで終了。
せっかくの準備も何もかもパーです。
もしかしたら、そこも含めての生徒への教育になるのかもしれませんが、正直、相当肝っ玉が据わっていない限りはできない方法でしょう。
だって、教員はやらせたいのですから笑。
そこをすらもある意味で損得勘定なしに生徒目線に立って教育をしようとするある意味での民主主義的選択を取らせているところにすでに民主主義教育の下味が染み込んできているのでしょう。
抽象的概念と具体的思考の往来を通して
実は、この実践の最も難しいのはこの最初の全員一致の開始の合図と、
・みんなが仲良いクラス
・明るい雰囲気のクラス
・話し合いができるクラス
・おもいやりができるクラス
ここから
・明るい雰囲気
・おもいやり
・和と戦
への転換。
一見するとどちらもぱっと見「つまり?」と問いかけてしまいがちな内容ですが、上の案に対して下の案の方が?は浮かぶと思います。
それもそのはず。
上のありきたりな目標に、この学級限定の共通認識の具体的思考が織り交ぜられたものとなっているからです。
つまり、本当の意味での学級の(この学級にしかない)最上位目標になっているのです。
これは簡単なように見えて、そんじょそこらの人にはできません。
そもそもの具体と抽象自体の全体像を捉える視野がないと無理ですし、その視点をわかりやすいように消化して分解して生徒へと手渡さなければなりません。
この実践の教員自体が具体と抽象のバランスがないと不可能ですし、そもそも学級の中でも気付かぬうちにそう言ったトレーニングがなされていたのでしょう。
その先に何を見るか、何を目指すか
忘れてはいけないのは、この実践で決めたのはあくまでも学級の最上位目標。
具体的視点と抽象的思考の結集であるのは間違いないのですが、どんな姿で終わりたいかというあくまで抽象的なイメージです。
この実践の真に面白いのはここから。
この最上位目標を決めた(おそらく一人一人が自分とみんなで決めたと思っている)全員がどのような具体的行動をとっていくのか。
そこにこそ、この民主主義教育の必要性が詰まってくるのでしょう。
実に面白い実践であるのに、その中身についてはまだ何もみれていない。
美味しい料理の匂いを嗅がされて、お腹が鳴った状態のまま。
果たしてどうなっていくのか楽しみでありません。