このなんとも言えぬやる気のなさはどこからくるのか、、、。(57日目)
思えばこの数ヶ月、なんとも言えない喪失感のようなものに苛まれていました。
でも、たくさんの学びの泉の中で過ごし、それを実践し自分の教育観も新たな学びで加速していったり、確立していく実感も同時にありました。
おそらく、そう言ったいいエネルギーを見続けることで、無視しようとしていたのかもしれません。
新しい教科”探究”
高校の新学習指導要領の根幹として探究活動が挙げられます。
探究活動がどう言ったもののなのかについては、さまざまな記事で語られています。
これまで各々の独自性のあった授業の中でも、探究のサイクルを回しつつ主体的・対話的で深い学びを行っていく必要があります。
これまでの教員からの一方向型の学びでも、十分得られるものは多くありましたが、時代背景が短期間で大きく変動し続ける世の中において、それに適応し修正しながら自走する力が求められます。
また、Society5.0の世の中においては、いついかなる時でも欲しい情報をすぐに手に入れることができ、個々の持つ情報や知識が専門化していきます。
だからこそ、それらを掛け合わせて新たな価値や知見を広めていくことが、これからの世界です。
そうして、そう言った一つ一つの力を磨いていくことこそが探究です。
しかし、その導入は数年前からささやかれていたものの、いざ現場に下ろすとなると、これまで体感したことのない私たちにとっては、正直なところ、「分からない」というのが本音でしょう。
現に、現場においてもその試行期間を過ごしながら多くの失敗、挫折、頓挫を経験しています。
試行期間にすら入れていない学校もあるほどです。
かくいう本校もその学校の一つです。
なぜ、分からないのか
一つには、自分が経験していないということが挙げられます。
そして、その経験していないものを生徒に伝えるということに対して、毛嫌いをしたり、プライドを傷つけられたりということで、ますます敬遠してしまうのです。
そしてもう一つは、探究の具体的案について明確になっていないという点があります。
確かに、すでに探究活動に適した教科書や参考書のようなものは出てきています。
しかし、そこには表面上のテクニックが多く記載され、何を大事にしたらいいのか、何がポイントになるのかが汲み取りにくい部分があるのです。
それもそのはずです。
その、何を大事にするかについては、各学校ごとに異なるはずだからです。
私学なら尚更です。
ここが明確にならないと、目先の負担にばかり目がいってしまい、どうしても形だけの探究になってしまうのです。
究極を言えば、探究を探究する必要があるのです。
自分の学校や自分の教育にとって探究とは何なのか、どのような生徒を育てたいのか。
これは、業務効率だけを考えより良い授業や行事、学級経営などを考えてこなかった先生にとっては非常に苦しいものになります。
そうして、その循環は悪い方悪い方へと流れていくのです、、、。
私の学校の例を話しましょう。
探究を導入しようとした実例
私の学校ではスタートを切るのが遅れ、今年度は試行期間すらできず次年度から本格的実装になります。
今年の3月ごろにその探究の時間の設定について会議が行われました。
本校ではコースを再編成したこともあり、ちょうどカリキュラムも再構築していました。
その結果、一番学力的に上位にあるコースについては、時代に逆行したいわゆる詰め込み型教育。
時間割をとことん詰めて学習するようなコースになりました。
そして、この歯車の狂いによって、時間割の中に探究を入れられる時間がなくなってしまったのです。
しかし、その中でも本校のある部署では必死に探究のあり方を議論し、お互いに授業案を作り、いつ手を差し伸べてくれるように頼まれても、対応できるようにと万全を期していました。
そのまま時は流れ、何も進展のないまま決めるための期限が来てしまったかのように急に全体会議の場がもたれました。
私自身も何回も熟考を重ね、いろんな人に聞き、自分なりの解答を少しずつ捻り出していました。
結果として、学期の終わりに数時間まとめて入れる案と、毎週時間割の中にぶら下がる形で入れる案の2つに分かれました。
私個人としては、7時間目にしてでも無理矢理に探究の時間を入れるべきだと考えていました。
中には、「時間割を無闇やたらに伸ばして意味のないものだったらどうする」とか、「毎週そんな時間を担任が作ることなんて不可能だ」という意見もあったかもしれません。
議論尽くされたのであれば、悔いは残りますがどちらでも良かったのです。
しかし、最終的に衝撃の多数決で採決が取られました。
コメントも長くなるからと一人1コメントの制約あり。探究について全くわからないという教員がいるにも関わらずです。
私の中で何かが崩れ落ちていくのを感じました。
それ以来、「学校を変えよう」、「教育界を変えよう」という気持ちは、自然と心の奥底に沈んでいってしまったのです。
転機は訪れる
そんなこんなで、過ごして数ヶ月が経ちました。
私は変えようという気持ちが消えたことにも気づかないくらいに、自分の気力がなくなっていたのです。
まさに、死んだように生きていました。
それが、今日急に天気が訪れました。
私の所属するオンライン教育コミュニティの仲間に自然とコンサルをしてもらえる流れになりました。
最初は、ここの活動の一環であるメディアをどのようにしたいかについて話していたのですが、徐々に自分のもやもやに気づかせてもらえました。
思った以上に数ヶ月前に食らったこの探究のダメージがでかいことに気づけたのです。
私は組織に身をうまく埋めようと、そして波風立てないように自分の目の前の好きなことだけをして、自分のテリトリー内だけで、全力で頑張ろうとしていました。
確かにそれも一つの答えだったのかもしれません。
でも、そんな教員が行き着く先は、冒頭で記載した敬遠する先生そのものでした。
このままでは自分もそんな教員の一人になってしまう。そうして、いつの日か自分がわからないところで、同じようなことをまた、下の世代にやってしまう。
そんな悍ましい光景が目に浮かびました。
自分が納得をしていないなら、とことん話せばいい。
まずは校長から。自分の思いをとことんぶつけて話す。
そうして出来なくてもいい。当たって砕ける、砕けたらまた集まって当たる。その繰り返しだ。
校長に何を伝えたいのか
まず、今、本校での探究活動の設計はうまく行っていません。
それ以前に、学内での探究のイメージがほとんど構築されておらず、私自身も不安に感じています。
校長先生自身は探究活動について、どのようにお思いでしょうか?
でも、この学校には一つ大きな信念があります。
それがミッションステートメントだと思うのです。
今一度、この想いを皆で共有し、このミッションステートメントに沿った教育を皆さんで話し合ってみませんか?
現実問題、探究に一番近いとも思える、学院セミナリオや学術研究も思いのほか、うまく行っていません。
授業一つ取ってみても、今年度からBYODを導入しているにも関わらず、端末持参率は今や30%切るところにまでいっているそうです。
学びを加速するはずのICTが学校の足枷となっており、主体的・対話的な学びなんてもってのほかなのではないでしょうか?
私はそんな現状でも、私から見れば何もせずに呑気に座っている校長をとことん軽蔑しています。
いつしかのオンライン説明会の動画再生が滞ってしまった時も同じです。
しかし、私自身校長先生が何を考えているのか知ろうともしなかったのも事実です。
私の勝手のイメージだけで、校長を先生を見下していことを深く反省しています。
確かに、一度こんな学校と諦めて、自分の学年だけでも全力で命をかけようと覚悟したこともありました。
しかし、校長先生を知らないまま、自分の見ているこの学年の子だけを良くしようとしたら、学校を見捨てることになるんです。
私は、自分の育ったこの学舎を卒業生としても愛していますし、教育者としても本当にかけがえのないものだと感じています。
最近よく校長先生ことを思い出すとすぐにでも、嫌な感情で押しつぶされそうになるのですが、一枚の写真も頭に思い描かれるんです。
それは、若かりしころの校長先生が生徒と談笑して、満面の笑みを見せている写真です。
数年前に納会幹事で写真を見ていたので、よく覚えているんです。
私は、心の底からこの学校をよくしていきたいと思っています。
ぜひ、一度校長のお話を聞かせていただけないでしょうか。