ごきげんよう、アラン先生。~言葉が使われる場所、言葉が輝く場所~
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」
最近耳にすることも多い言葉かもしれません。
この言葉は「幸福論」の中の一文で、書いた人は、アランという哲学の先生です。
彼は「幸福になることを誓わねばならぬ」とも書いています。
私なりにアラン先生の言葉を言い換えるのなら、“悲しいことはどこにでも落ちているけれど、それでも前を向きたいのなら微笑もうとしてみなさい、それだけで貴方は変わることができる。だから幸福になることを恐れてはいけない、幸福になる意志を持ちなさい。”という感じかな?
「幸福論」は難解で抽象的だとされる哲学書のイメージを、ばっさり裏切る本でした。具体的に、日常の中のひとコマを切り取って、それを哲学的解釈している本でした。(一番好きな話は「27楡の木」の話です。たしかに!!!!と非常に納得しました。)
さて、なぜこの本を取り上げたのか?
単純に面白かったから、というのがひとつの理由です。「あー、わかるわかる」とうなずきながら読める本でした。
そしてもう一つの理由は、なんとなく違和感を覚えたからです。
「アラン先生の文章自体はすごくわかるけど、今現在の使われ方にはわかるって言えないや」と言った方が近いかもしれません。
もっと言えば、ここでアラン先生の言葉を使うことで見えなくなるものがある気がしました。その感覚を書き留めて共有したくて取り上げました。
めんどくさい話です。
礼儀とか微笑みとか上機嫌とか、大切だと思います。
家にいることが多い現在、自分にできることでちょっとでも前を向くために、そして希望を失わないために、それらは大切なんだと思うのです。
個々人が言うにはとても素晴らしい言葉だとさえ思います。
だけど、それをあまりに声高に叫ぶのは違う気がするのです。
要するに、アラン先生の「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」という言葉が独り歩きしてないかという不安なのです。
この言葉は個々人の気分を調節するにはとても意味ある言葉だと思います。
だけれど、それを大局に当てはめるのはどうかと思うのです。
アラン先生は「幸福論」の中で、「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」の後の文章でこんな言葉を書いています。
「根本的には上機嫌などというものは存在しないのだ。しかし正確に言えば、気分というものはいつでも悪いものであり、あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである。」
そう、アラン先生はあくまで、その人の気分をどうするか+その人がどうやって幸福になるのか⇒その人自身の意志と抑制だ、という話をしているのです!
(ここではアラン先生の文章を抜粋してショートカットにお伝えしますが、少しでも「ん?」と思ったら実際に幸福論を読んでみてください。)
そうあくまでも、「個人の幸福の話」なんだ…。
だから、アラン先生のあの言葉が語られる文脈に「えっ?」と戸惑うわけなのです。
これからの未来の話を議論するときに、「楽観主義で行こう、なっ!」というのは、おかしな話です。だって、多くの人の未来の話をしているのに、その人のその人らしい幸福のあり様の言葉を出されても…な感じだと思います。
たぶん、今、大局を見るのに必要なのは、冷静に現実を受け止める目と、敗北主義ともいうべきリスクテイクの考え方かもしれませんね。
ただ、「個人個人がどう今日を過ごすのか?」という議題なら、アラン先生の言葉はものすごく威力を発揮すると思います。「わかるうぅぅぅ~」のいいね連打です。とりわけ「きみはこの病気が気をめいらせるものだということを知っているのだから、気がめいることに驚いたり不機嫌になってはいけない」という文章には、コレは私に向けて書いてくれたのでは…?と錯覚するほど腑に落ちました。
個人的に読んでよかった本の一冊には入ると思います。
だからこそ違和感をものすごく覚えたのかもしれませんね。
でも、同時にこんなことを考えました。
「もしアラン先生が今を見た時、これからを考えるときにはどんな見方をするだろう?」と。
知りたかったな、と思いました。
おしまい。