このすばらしい世界にピースマークを
1
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
とても有名な福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の言葉だ。
しかしこの言葉の本当の意味を理解している人はとても少ない。
“人は平等だ”と言われたらどんなに楽だろうか。
どこにいても、どんな身分でも、誰でも平等にチャンスを与えられ、夢見ることを許されるなら、どんなにこの世界は希望にあふれているのだろう?
だから、思いたい。
人はみんな平等だと。
そして、福沢諭吉さんの伝えたかった事は、多くの人に本質を理解されないまま、人類平等を謳う、誰かにとっての救いの言葉になっているのだろう。
その言葉を紡いだ主人がどんなに不愉快に思っていようと、人類平等なんて言ってねーよ…と雲の上から嘆いていようと、そんなこと、知ったこっちゃない。
自分にとって都合が良いならそれでオッケー!
いいねして拡散して、これが紛れもなく正解なのだと言わんばかりに誤解した言葉を正義として振りかざす。
このすれ違いは、きっと私たちの日常にも潜んでいる。
そして特にSNS上では、自分にとって好都合で、おもしろいかどうかがすべてであり、それが真実じゃなかったとしても、違法に転載やアップロードされたものであっても、もしかしたら誰かが傷つくのかもしれなくても…そんな事は関係ないのだ。
配慮配慮と叫ぶのに、身近な人の感情の機微を思い遣ることが出来ない。
国や宗教やジェンダーへの知識を語るのに、大好きなアイドルの隠したがっていたコンプレックスをかわいいと言い、世界に晒す。自分に都合の良いフィルターをかけて物事を捉える事の、何が危険で良くないことなのかさえ、きっと分からない。
こんな世界はくそったれだ。
いつも損をするのは正しく生きる人だけだ。
人の感情の機微を思いやれる人だけが傷つけられておしまいだ。
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2
人は果たして、本当に人類平等を願っているのだろうか?
時には誰かと比べたい、私の方が幸せだって…と歌った歌があったけど、
分かる。
比べたい。あの子よりずっと私の方が幸せ。私が一番分かってる。私が一番理解があって、私が一番利口で、目の前でくだらない嫌味を言ってくるクソほどかわいそうな余裕のない上司にも微笑みと軽い冗談で和ませてあげられるすばらしい人間だ。だって、私の方がお前なんかよりずっと幸せなんだよ。ごめんな?でもそれが紛れもない真実なんだよ。
そうやって優位に立つことで、自尊心を保っているのだ。
では、例えば人を攻撃する輩と、素直な人たちに気づかれないように巧みにマウントをとってくる人たちと、どちらが上にいるのだろうか?どっちもどっちだと誰かが思ったなら、私たちは不本意ながら、誰の上に立つこともできない、平等の砂漠の中に立っているのだ。
誰かと自分を比較して、平等を願わない私たちは、人を裁くことが大好きだ。
人を裁けるのは法だけなのに、名前も名乗らない通りすがりの誰かが、誰かの言葉や感情にさえジャッジを下す。
大量のツイートアクティビティを持つ誰かが、まるで代表選手のように大きな声で間違いだと言えば、真実に関係なく、どっちつかずだったその他大勢が叩き始め、めくるめく間に正誤が決まる。都合よく持ち上げて、利用しているけれど、その代表選手がもしも脚を滑らせようものなら、容赦なく手のひらを返す。
自分の怒りを他人にぶつけるなんて、現実世界なら幼い子供でもためらうことを疑問を持つことなくやってのける。
家族でも友人でもない、もしかしたら顔も知らない誰かの言葉をどうしてそんな簡単に信じられるのだろう?
自分の中のルールや感情をどうして他人に左右されなくてはいけないのだろう?
天は人の上に人をつくらないのに、優劣をつけたがるのはなぜだろう?
これはSNSの中で“よくある出来事”とは逸れるかもしれないが、私の好きなアイドルのファンダムでは何か意見の割れる出来事が起こると、必ず否定的な意見を抱いた人たちの感情にフタをされる傾向がある。くそくらえだ。
ちょっとしたことで大騒ぎをし、本人の目に見えるようタグ付けしたり、過激な言葉で事務所にフィードバックを求めているのはもちろんどうかと思う。
しかしその多くはただ「さみしい」「悲しい」といった気持ちから生まれたその人の中の素直な感情だ。タトゥーをしないでほしい。年越しは自分の国で過ごしてほしい…。そう思うことの何がいけないのだろうか?自分の感情でさえ、他人に評価されなくてはいけないのはなぜだろう?
ちなみに個人的な気持ちを言うとタトゥーを好きなだけいれてもいいし、どこの国にいても最高のパフォーマンスを観れるならそれでいい。そう思う私は120点満点の正解の感情を抱くファンの鏡か……?
好きな人をまっすぐ愛せなくなったのなら、本人たちや事務所に対して、文句ばかりが出てくるようになったなら、その時は静かに立ち去るしかないと思う。
しかしその人たちからすれば、それを他人に強要される筋合いもないのかもしれない。
ここで、よくわからないことがもう一つ。
マイナスな感情を抱く人たちのことをディスったどこかの誰かがまるで正義のヒーロー扱いされる現象だ。
これまで黙っていた人たちが一斉にリプ欄に現れ、そうだ!そうだ!と声をあげる。それを見た好きなものを肯定できなかった誰かは、ただ自分の気持ちをつぶやいただけで、誰も傷つけようなどと考えていなかったにも関わらず、その瞬間、まるで罪人にでもなったような気持ちになるだろう。
人を傷つけているのは果たしてどちらの人たちだろうか?
しかしながら、その声をあげた事で大量のいいねとRTを獲得した“ファンの鏡”代表選手にも「アイツなんだよ…うぜぇ…」という声があがるだろう。たくさんのフォロワーを抱えていて自分の言動一つで流れを変えられることを知った上でそうしたのなら、それはとてもとても悲しい人だ。関わりたくない。だけど初めにマイナスな感情をひとり言としてぼやいた誰かと同じように、ただ素直な気持ちをひとり言として発言しただけかもしれないのに、どこかにいるかもしれない自分の曖昧な正しさをふりかざす人種と同じにされるなら、それもまたとてもかわいそうだ。
私たちの“正解”を決めるのは誰だろう?彼らと同じ言語を話せたら偉いのか?日本語以外の言葉を使えたら偉いのか?しっかりとした自分の考えを持ち発信すれば偉いのか?
あくまでも、私は誰かを批判しているわけではない。なぜか言葉端だけを切り取って勘違いする人がいるので(こういう謎の人たちについては後ほど触れる)あえて言うが、私自身、心に留めておきたい言葉は細心の注意を払いながら訳すし、翻訳をしている方や情報を拡散してくれる人もフォローしている。言葉が何も分からなかった頃、彼らの曲のメッセージを教えてくれたのは、翻訳動画を作っていたたくさんのフォロワーを抱えた人たちだった。少なくとも私がフォローしている人たちは愛をもって行動されていると思う。
だから大手と呼ばれる人たちや翻訳アカを批判しているわけではない。
言いたいことを分かりやすく言おう。
どちらが正しく、どちらが間違っているかなんて、本当は誰にも分からないのに、勝手に善悪や正解を決めるこの風潮こそ、くだらないのではないかと言いたい。そこからはみ出してしまった人を批判して疎外していく世界こそくだらないのだ。
人は平等だ。上も下もない。他人を持ち上げて勝手にコンプレックスを感じるな。
どこの誰だか分からない他人に自分の感情を任せて、良いことと悪いことをジャッジするなんて誰の救いにもならないじゃないか。
思うのは自由だ。
自分の感情を罪だと感じる必要はない。
悲しくたっていい。傷ついたっていい。盲目に信じているなら、お花畑だっていい。誰もが愚かで、誰もが間違っている。
そしてあらゆる角度から物事を見るのなら、その時には、誰もが正しいのではないだろうか。
茨木のり子さんの詩のように、自分の感受性くらい自分で守るものだ。
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3
もしあなたが自分の上においた人物がいるのなら、その人は果たして本当にあなたよりも優れていて幸せなのだろうか?
携帯の画面に収まるほんの一部分に、さらにフィルターをかけ、加工した写真はキラキラと眩しいけれど、その魔法のフィルターをとれば、そこにある真実の姿はどんな風だろう?フォロワー数やいいねの数で、勝手に自分よりも上や下に決めつけて、時に青く見えるその隣の芝は、実は何もないカラカラの地面なのかもしれない。
豊かな暮らしとはなんだろう?
幸せな人とは、どういう人だろう?
SNS上でまるで我先にと言わんばかりに一斉に同じ話があふれる瞬間がある。
“もしもよーいどん!に乗り遅れたら古い話題しかしない、価値のない人間にでもなるのだ…”と、誰が言ったわけでもないのに、乗り遅れた!と思ってしまうことがあるのはなんてくだらない感情だろう。そして遅すぎるとわずかな反応しかない癖に早すぎると「まだ観てないのに」などと文句を言い出す人がいる。見たくないなら読むなよ。としか言いようがない。
私の中の好きという気持ちくらい、私がいつどこでどんな風にツイートしようと私の勝手だ。
余談だが、個人的には2日後ぐらいに、いつかの話題に触れ始める人が好きだ。だってその人は自分の時間軸で生きている。生活の片隅にある小さな世界を時々開いては、自分の素直な思いを、誰かに向けるわけでもなくそっと紡ぐ。そのささやかな行為は、とても好感が持てる。きっと、自分の人生を生きている人たちなのだと思う。
だから私も後者でありたいと思うけど、奇しくもよーいどんの一番乗りをしてしまったであろう時、その他と比べて何が良いのかもわからない私の感情がバズることがある。いいねを集めて拡散されて、なんなら崇拝までされて……。いつもそれを狙っている人たちは、それで自己顕示欲と承認欲求がひたひたに満たされるのだろうか?バズると訳のわからない感情にも遭遇するため、良いことばかりじゃないけれど、嬉しくないと言えばそれは嘘になる。知らない人と共感し合えるって素敵なことだ。だけど私は、自分が特別優れていると勘違いしたり、されることがとても怖い。だって私は、トップアイドルでも偉い先生でもなんでもない。ただの人間だ。
ネットの中のほんの狭い世界で承認欲求を満たしたところで、そこには何の価値もない。
ところで、こんな風に自分を例に挙げると、あぁ、この人も色々なジレンマを抱えて大変なんだな…かわいそう。あなたにとって住み心地の良い世界でありますように…などと思ってくれる親切な方がいる。
私はいいねが集まると承認欲求が満たされて嬉しい!なんて一言も言っていない。そんな自分に嫌気が差す…とも言っていない。
もう一度、分からない人の為に自分の感情を端的に話すと、誰かと感情を共感出来ることは嬉しい。しかし小さな携帯の中に張り付いて、褒めそやされることに、私は何の興味もない。
ただ、関係ないアカウントを例に挙げるなんてひどいことは出来ないから自分を例に挙げただけだ。しかしながら一度読んだだけでそれを理解してくれる人と、そうでない人がいる。
それは主観というフィルターのせいだ。
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先日ツイッターで占いの本の話をした。
すると、何か悩まれているのですね…と言われた。私はただ、それを習慣としているだけで、特別解決したいことがあるから占いをみていた訳では決してないのに、その人の中でそうなった。
こういった言ってもないことを決めつけられ、それを言われたところでなんて返せば????となることが稀にある。
それは私にかけられた思いやりだろうか?
私はそうは思わない。いつもきれいな言葉を使い、優しいふりをして、どこかで他人と自分を比較し続けている人は、こういう思いやりに見える偽善を撒き散らし、優越感に浸っているだけだ。その一瞬、誰かを自分よりも“かわいそう”と思うことで、自分はマシだと思えるのだろう。私がひねくれているからではない。だって誰かに気にかけてもらえることが素直に嬉しい時もちゃんとある。それはその言葉に滲んだ、人柄から受け取れる優しさで、その人たちの尊敬できる考え方から派生したもので、私の身近にいる大多数の人は、幸運にもそのようなマウントを取ってこないからだ。
だいたい私は毎週月曜に某しいたけ占いを楽しみに読んでいるけれど、じゃあ、私のように毎週月曜を楽しみにしている人たちはみんな悩み苦しんでいるのだろうか?
もっといえば、悩みがない人なんているのか?人には言えない深刻な悩みを持っていても占いを読まない人はいるし、明日の服どうしようかなー?!と思いラッキーカラーを調べる私のような人間もいる。
必ずしも“占いを読む人=悩んでいる人”ではないし、“悩み”という言葉でさえ、その範囲はとてもとても広い。それなのにこれはこうだと決めつけてしまう時、その行為の目的にあるのは優越感以外のなんなのだろう?
主観だけでものごとを測り、決めつけてしまうほど恐ろしいことはない。
私の好きなアイドルの目がいつかキラキラとしていた時、寒くて目が渇いていた反動かもしれないのに、なぜか泣いていたことになっていた。
「辛かったよね…苦しかったよね…」と誰かが言う。
たまにテンションが上がっている時以外は無口な子が俯いていたら「やっぱり辛かったんだよね」と誰かが言う。ただ伏し目がちになっただけで、本人の知らないところで勝手に物語が生み出されていく。大小説家時代だ。
誰かを勝手にカテゴライズし、分からない他人の感情をコントロールしようとするのはなぜだろう。
大好きなアイドルの目が潤んでいたのが気温のせいであってはならない。泣いてくれたほうがロマンチックで自分にとって都合が良いから。本当に愛している人ならば、何の気苦労もなく楽しい日々を過ごしてくれることが、何よりも救いになるはずなのに、傷つけられ苦しめられたけど、負けないで耐え抜いた強い子!だと思いたい。そのほうが自分にとって、ドラマ性があって都合が良いからだ。
真実かどうかはどうでも良い。自分にとって都合の良いことならそれで良いのだ。
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こんなことがあった。とある海外のファンのすてきなイベントの風景に感動し、ツイートした。それと同時に、彼女たちの行為が、日本ではおそらく肖像権の侵害にあたるのではないかという話もした。ツイッターのタイムラインには表示されるものとされないものがあるので一概には言えないけれど、私の中のきれいな感情はたくさんのいいねを集めた。
しかし、意味が分からないからスルーしたのだろうけど、現実的なつぶやきにもいいねをくれたのは、ほんの数人で、それもいつもの、個人的にこの人たちとはきっと現実世界でも友達になれるんだろうな…と好意を持っている人たちがほとんどだった。
真実なんてどうでもいいのだ。文化の違う国で生まれ育った彼女たちの行為を否定するつもりは決してないけど、そこにある複雑な背景を見なかったことにして、きれいなものだけを見ていたい。きっとそれがごく当たり前の人の心理なのだろう。悪いことではない。だけどほんの少し後ろめたさを感じるのはなんだろう。
悪いことではない。
しかし、見たくないものを見ないままでいることは、時に人を傷つける。まるでインスタグラムにUPする写真のように、自分に都合の良いところだけを切り取って、自分の好みのフィルターをかけ、歪められてしまった真実は…。
私の大好きなアイドルが、“メンバー同士が愛し合っている”と言ったファンの何気ない言葉に不快感を示した。もしかしたらその子に、悪気はなかったかもしれないのに、そういう考えはやめてくれと苦言を呈した。その出来事を、きっとたくさんのファンが把握しているだろう。それでも今もなお“そういう考え”は、またあの子の目に、いつ触れてもおかしくない場所で世界に向けて発信され続けている。
いつも私たちにたくさんの愛をくれる大切な人の感情さえ、自分にとって不都合ならば、ないがしろにされるのだ。見たくないものを、知りたくない出来事を上手に受け流して、何事もなかったかのように世界は続く。ほんの一握りの人の心にだけ、彼の気持ちが届いたならそれで良かったのだろうか?もしもまた彼の目に不快なものが飛び込んでいってしまったらと思うと、私はとてもとてもやるせない。
いつも黙って耐えるだけの正しく生きる彼が、どうしてあの子ばかりが、こんな目に遭わなければいけないのだろう。
しかしながらこうしてここではもっともなような言葉を吐き、口に出さずとも彼らに見えないところで行われているそれらを密かに楽しみ、時に受け流している私自身も彼女たちと何ら変わりはない同罪なのかもしれない。
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フィルターは危険だ。その属性は時々、自分の怒りの発散に使われる。
空港や駅で怒鳴り散らしている人を見たことがあるだろうか?
彼らの主張は、時にはある意味正しいことを要求しているのかもしれない。だけど一方で相手側の諸事情を、その瞬間は全く理解していないだろう。きちんと解釈してしまって怒りがおさまったら大変だ。イライラの矛先がなくなってしまう。
そしてそれはSNSでも同じだ。どこをどう読んだらそう思うのか…?となる不可解な解釈をして怒り狂って悲しんだり、勝手に他人の感情を自分と同じだと決めつけて語り出したりする。
すべての中心は自分だから、話の本質を捉えることではなく自分の感情が第一優先だ。
なぜそんなに自分勝手に生きるのだろうか。
誰かと自分を比較して優位に立とうとしたり、ハッキリとしたどこかの誰かのしっかりとして見える考えに引っ張られ、他人をジャッジしたり、言われてもいないことを勘違いして勝手に傷つき怒りに飲み込まれたり……
すべての原因は、自己肯定感の低さだろう。
自分が正しいと誇示したいのは、自分に自信がないからだ。
誰よりも身近な自分を大切に出来ていないからだ。
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7
私の大好きな人は言った。
“君の頑張りは君自身さえ知ってればいい”のだと。
正確には、1年前の自分へのメッセージとして、
「君が頑張ったことは僕が知っているから、君自身さえそれを知っていればいい」と話していた。
自分を評価するのは自分だけでいいのだ。
自分が間違っていないと思うのなら、自分だけがそれを知っていればいい。
こうしろあぁしろと他人をコントロールしたり、ジャッジするのは人ではない。
人を裁けるのは法律だけだ。
SNSの中で幸せそうにしている人が、現実世界で豊かな心で暮らしているとは限らない。
自分を救ってあげられるのは最後は自分だけでしかないのだ。
捻じ曲げられたこの言葉を思い返したい。
“天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず”
あなたの上にも下にも誰もいない。
世界で輝くアイドルも羨ましく見えるどこかの誰かも、みんなあなたと大きな違いはない、みんな人から産まれたただの人間だ。
だから自分を勝手に下げ、誰かを僻み攻撃する必要なんてどこにもない。
実際には、福沢諭吉が『学問のすすめ』で語りたかったことは、人類の平等ではない。人は平等ではなく、その違いは学問に励んだかどうかにある…という話だそうだ。偉大な人物の文章をたった2行で語るなんて、また語弊が生まれるかもしれないけれど、良い大学を出たとかそういう学問ではなく、人生の中でのありとあらゆる“学び”が人の栄養になるのだと思う。
尊敬している、何歳になっても学びを続ける方が学ぶことについて私に言った。
「目覚めてる人だけ分かっている」と。
その言葉は私の心にとても強く響いている。
私はとても未熟だけれど、私もそちら側の人間になりたい。
だからこのくそったれの世界に、
ピースマークを送ろう。
正直でまじめで、
人に押し付けるでもなく親切にできる、
そんな人たちばかりが損をする世の中だとしても。
ピースマークを送ろう。
私の好きなアイドルのファンが、出会った頃は小学生だったのにもう高校3年生になったという話を聞いた。
私の考えや思いやりや日常の端々に10代の頃大好きだった音楽たちが染み付いているように、彼女の中にこれから先もずっと、「君の頑張りは君自身さえ知っていればいい」と言った、彼らのメッセージが染み込んでいくのだろう。
迷い立ち止まる時、ひどい人に遭った時、きっと彼らの言葉や、思い通りにいかずバカにされても何も言わずじっと耐えていたその姿勢が、彼女の心のコンパスになるのだろう。
彼女たちが造っていく未来は明るいはずだ。
多くの人が心から自分を愛し大切にするように、自分と違う感情を受けながしてあげられる世界。よく分からない他者を理解し受け入れることのできるそんな世界だ。
私はもっと学んでいきたい。
このくそったれの世界で、
きらきらと光る正しく優しい人をきちんと見つけられるように。
大切なひとの言葉を、いつもまっさらな心で受け止めていられるように。
(※タイトル引用元「悪いひとたち」より)
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