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平静な日々と積読とヴォネガットについて。

みなさんにもひとつ、お願いしておこう。
幸せなときには、幸せなんだなと気づいてほしい。
叫ぶなり、つぶやくなり、考えたりしてほしい。
「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだったっていうんだ」と。

カート・ヴォネガット 『国のない男』

評判のいい人のnoteを見ると、自分の日々がつまらなく思えてくる。最近はどこにも行けてないし、頭にあることは漠然とした将来への不安だとか、そういうものばかりだ。

しかしまぁ、親が元気で友人がいて、身体面では健康で、そんな日々を、他人に喧伝したくなるような面白い体験がない、からといって不満を持つべきではないのかもしれない。

 少なくとも自分は、この充足に感謝が出来ないうちは、新しい人に誇れる何かを得たとしても、結局幸せにはなれないだろう。近くにあるものは見えなくて、遠くにあるものばかりが鮮明に思える。そんな遠視眼のような心では、幸せも手に入れたさきからこぼれ落ちてしまう。

自分の日々も、他者から見れば何に替えても手に入れたい、しかし手に入らない。そんな僥倖に満ちている。そんな暮らしをブログの種にならないからって貶したら、その暮らしが手に入らない人間、ひいては“それ”を失ってしまっているのかもしれない、いつかの自分から酷く憎まれることだろう。

わざわざ書くほどもない、他愛もない会話。
暖かな日差しと気だるげな午後
耳に聞こえる。感傷的な音楽。
見飽きた故郷の景色。
夕食にでる美味しい手料理。

そんなものたちを頭に浮かべながら、うん、まぁまぁぼちぼちやってるよ。
不安なことや苦しいこと、満たされない思いもあるけども、そんなに悪くはないよ。

という所感を、皆さんにお伝えできるような日々が続いていけば、自分には幸いだ。

積読について。

 初めの話題を書くにあたって、記事サムネイルに写真が載っている、「国のない男」というエッセイを手に取った。
そしてそのついでに長年積んでいた、同作者の『読者に憐れみを』という一冊を引っ張り起こす機会があり、どうせこの機会だし、と少しづつ読み進めている。

結構。
分厚い。

自分は買った本を読み終える前から、次の本を購入してしまう悪癖がある。というかある程度本を読む人間には普遍的な買い方だろう。しかし自分は未だに開き直ってしまうことに抵抗がある。

読みもしないまま積み上げる。自分の場合はものぐさで、本を床に置いて管理しているから本の塔が部屋のそこかしこに建立されていて、文字通り積読の様相だ。

なぜ自分がその悪癖を積極的に治そうとしないかというと。自戒の念以上に自分のだらしなさが勝るというのと、積読に助けられた成功体験があるからだったりする。

 まず、人と本の間には、リアリストにさえ運命を感じさせるような、最良の出会いのタイミングというものがある。というかいま現在の自分が “積読のおかげ” でそれを体験しているのだ。

最初に、私が積んでいた本について説明させていただこう。

まず著者について簡単に紹介させていただく、カート・ヴォネガットは戦後〜二十世紀末ごろまで活躍していたアメリカのSF作家(彼は自らがSF作家と呼ばれることを良しとしないのだ)で、主にエッセイやSF小説で知られる。
 生き生きとした人間みのある暖かな筆致で、ジョークを交えながら深い洞察力で、社会や人生の根本にある不条理や問題にメスを入れる。柔らかさ(人間愛)と鋭さ(批評制)を持ち合わせた作風が評価されている作家だ。

そして今回私が手に取った(手に取るまで3年間部屋で埃を被っていた)本書は、そんな彼の死後、アイオワ大学で文芸創作講師を務めていた彼の教え子であり、小説家のスザンヌ・マッコーネル氏によって著された。彼の人生を振り返る回顧録であり、教えを編纂した創作指南本である。

まだ四分の一も読めていないので、詳しいレビューはここには書かない。読み終わったら書評を書くかもしれないので、少しでも期待を抱いてくださった方はフォローして首を長くしながら待ってみてもいいかもしれない。

私は遅読ながらも、彼の小説やエッセイにハマっていた時期があり、そしてその頃はアルバイトのおかげで金銭的に余裕があった事もあり、体力的に働けず小遣いから捻出した1〜5000円の読書代でヒィヒィ言っている今の自分には手を出せない、この一冊を購入した。

その、当時のサイフのヒモの緩み具合でギリギリ手に届いた、この一冊を読むことが今の自分を強く励まし、慰めてくれている。

自分は今、大学の卒業制作のプロットに行き詰まっている。苦心しながら書いても自分の望んだ出来の成果物は得られないかもしれない、妥協に対する恥や、努力不足に対する後悔ばかりが残るかもしれない。いや少なからずとも残してしまうだろう。そんな思いに、まだ全く手を付けていない今から辟易している。
noteだってそうだ、何のために書いているのか、どう書けばいいのか、このまま続けていればいいのか、どう評価されれば自分は積み重なる執筆時間に甲斐を見いだせるのだろうか。手慰みの趣味ではあるが、思うところはそれなりにある。

そんな今、自分の手元にこの一冊があるということは、とても幸いな事だなと感じざるをえない。

明確な、現状を突破する方法論やアイディアに出逢えたわけではない。ただこの本には、巧拙の違いはあれど、自分と同じように頭を掻きむしりながら、自分のために書かなければならないという、エゴイスティックな義務感を頼りに、挫折や妥協を繰り返しながら書き続ける人間の記録がある。

彼は、幾つもの短編や長編、エッセイ、コラム、そんなものを生み出すことと並行して、作家になった意味とも言える、20年以上かけて試行錯誤し続けたある一冊を、ついぞ完璧に満足いく形で出版できなかった。そんな運命に対しても、彼は “そういうものだ” その妥協こそが作家には肝要なのだ、と受け入れる心の強さを持っていた。

人は、書きたいと望んだ事物を、思い描いた通りに書くことなんて滅多に出来ない。それが人生の大一番の舞台だったとしても。

私はものを書くとき、両手両足がなく、口でクレヨンをくわえている人間になったような気がする。

カート・ヴォネガット&スザンヌ・マッコーネル『読者に憐れみを』

それでも彼は “書かなくてはならない” と人々の背中を押し続けた。

これは冗談ではない。芸術では食っていけない。だが、芸術というのは、多少なりとも生きていくのを楽にしてくれる、いかにも人間らしい手段だ。
上手であれ下手であれ、芸術に関われば魂が成長する。
シャワーを浴びながら歌をうたおう。
ラジオに合わせて踊ろう。
お話を語ろう。
友人に宛てて詩を書こう。
どんなに下手でもかまわない。
ただ、できる限りよいものをと心がけること。
信じられないほどの見返りが期待できる。
なにしろ、何かを創造することになるのだから。

カート・ヴォネガット 『国のない男』

ここでは、“芸術”とされているが、とりわけ “何かについて、どのような形でも言葉にして記すこと” についても彼は同様の文を遺しているらしいとの触れ込みで、『読者への憐れみを』を購入したのだが、そこまで読み進められていないのが残念でならない。

人は何かを書かなければならない、作家になどならなくてもいい、ただ真剣に、少しは冗談を交えてもいい、いやほとんど冗談で満たしてしまってもいいが、人は言葉や意志を表現し続けなければならない。それこそが人の魂を育むのだし、他者の気持ちを喚起させようとする行いは無駄にはならないと、そんな彼の言葉たちが、いまの自分にはこの上ない励ましと慰めになった。

今日この夜、この本に出会えて良かった。まさか3年間も肥やしにするとは思わなかったが、思い切って購入した羽振りのいい時期の自分と、売らずに置いていてくれた自分に感謝したい。


本日のnoteは前回に続き過去最長を更新してしまったけど、自分が心の底から伝えたいと思ったトピックだったので、不思議と気疲れも後悔もありません。
『読者に憐れみを』を読了すれば……毎日noteを読んでくれる皆さんに優しい記事を書けるようになるのだろうか……………なんて内省が始まってしまった所で、第8回目のnoteは以上です。ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。


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