1/2 福田裕子先生『どうぶつと暮らすということ ペットの声を聴いてみよう』 考えたこと
アニメ『プリパラ』で初めて、脚本家 福田裕子先生のお名前を知り、先生の作品の数々に大変感銘を受けています。
また、このようなことを申し上げるのはおこがましいのですが、福田先生の作品作りへの姿勢や、生活や趣味、またファンの方々との交流など、Twitterのご投稿を拝見するにつけ、その情熱や誠意に、なんと尊敬できるお方なのだろうと、我が身を振り返るといいますか、姿勢を正される思いがいたしております。
先生の最新作である『どうぶつと暮らすということ ペットの声を聴いてみよう』を拝読しました。これについて内容に想起され考えたこと・感想・批評ともつかぬものを描いてみる次第です。
また、僕は今まで、動物と暮らしたことがなく、また近々暮らす予定もありません。しかし、動物の生や人間との関わり方については以前から関心をもっています。そうした境遇の人間の文章として(なるべく普遍的な記述を心がけていますが、)読んでいただけると助かります。
動物といかに接するべきか
我々人間は、過去から常に、動物と暮らしてきたのでしょう。その関わり方は、食べ物から道具、そして友人まで多岐にわたり、それは時代や場所、それぞれの境遇ごとに異なっていたのだろうと思われます。
ペットに対する考え方
この本でテーマにされているのは、ペットとしての動物です。そのためここでは、ペットとしての動物との関わり方について、考えることにします。
動物をペットとして、人間のそばに置いておくことの倫理的善悪について、様々な議論がありますが、ここでは立ち入りません。ペットは動物の権利を侵害しており、一切認めるべきではないとする過激な立場もありましょうが、だとしても、現実に今、ペットとして生きている動物たちが、そのまま野に放たれることが、彼らの不幸を意味するのは、多くの人に同意されることだろうと思います。
そもそも彼らの生体的特徴や、放たれた環境の要因で、自然の中では生きていけない動物も多いでしょうから、
であるならば、ペットという存在に対して、どのような立場をとっていようとも、(よほど過激な立場でない限り)
今・ここにいるペットたちが、健康で生き生きと暮らしていってほしいということは、一定程度、普遍的な願いといえるのではないでしょうか。
健康で生き生きとペットたちが暮らすために、飼い主ができること
健康で生き生きとペットが暮らすとは、どういうことなのでしょうか。
ペットにとって良い生とは。
動物が自らの身体のつくりのとおりに適正な負荷(身体的にも精神的にも)が
かかる暮らしができ、しかし無理なく生きて寿命を全うできること。
ではないかと思うのです。
その技術的な方法論は、獣医師や動物学者、その他専門家の方々が究明されていることはいうまでもなく、そうして専門的な知見が人口に膾炙し、また身近に手の届く所に降りてくることで、動物たちのQOLの底上げが図られていることと思います。
しかし当然、それぞれの専門家は、専門外の知見を持ち合わせているわけではありませんから、専門家に飼われているペットのQOLが必ずしも高くなるとはいえないでしょうし、全てのペットの飼い主に、専門的な知見を探求するよう求めることが、ペットのQOLを上げることにも直結しないでしょう。(動物についての知識が豊富であることが良いのは当然として)
一般的な飼い主がペットにできることは、
彼らが彼らの身体的・精神的なつくりに合った環境で暮らせるよう環境を整え、そして彼らと関わり、
万が一、必要なときには、必要な専門家にペットを繋ぐことなのではないでしょうか。
そのために飼い主は、ペットを深く理解し、ペットとコミュニケーションをとり、ペットの最大の理解者となることが肝要であろうと思われるのです。
ペットの品種の特徴や、ペット個体の個性についての理解。そして、ペットの振る舞いや仕草、鳴き声に目を向け、その体調や精神状態を推測し、ペットが何を求めていて、なにが必要かどうかを判断し、どのような環境を用意すれば、ペットが満足してくれるのか、
また、必要な時には、どのような専門家や施設に連れて行けばよいかを見極める必要があるでしょう。
ペットは我々のような言語を持ちません。
我々のような言語を持たないということは、例えば「Cold」と「寒い」が全く同じ意味ではないように、我々が動物たちに向ける「痛いのかな」「苦しいのかな」「楽しいのかな」「満足なのかな」という眼差しも、決して動物たち自身が感じているものと完全に一致することはないでしょう。それは、動物ではなくても言語の異なる人間同士でも同じことです。
しかし、専門的知識を持たない我々が、動物たちが感じていること、してほしいことを理解し、彼らの生のために行為するのに、
100%正確でなかったとしても、必要な営みといえるでしょう。
そして彼らを理解し共感することは、友人らとそうするのと同じように、楽しく喜びのあるひとときでもあるのではないでしょうか。
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