本棚の経緯・中編
前編の続きです。
大学生になり、(いつの時代設定か良く分からない)自分的理想の大学生イメージに近づくべく、往復4時間弱の通学を古典文学と共にしていました。最初がホメロスの「オデュッセイア」だったのをなぜかよく覚えている。自分的にカッコいいと思っていたようである。「変身」は読んだうちに入らない、シェークスピア三大悲劇・「異邦人」・「ファウスト」・「ドグラ・マグラ」はマスト、という概念はどこから来たのか。さらには、文学部の友達が小さい古本で素敵装丁のサルトルの何かを鞄から取り出したのに憧れ、次の日からリュックに朔太郎の詩集を忍ばせるようになったり。
学部生の頃は、大学生協の本屋に行っては、有名どころをできる限り広くカバーしようというのと、好きになったものをひたすら読みたい、の板挟みになり、よく文庫コーナーに長時間立ち尽くしていた(基本お金がなかったのも一因)。「福音書」とブルトンの「シュルレアリスム宣言」は講義で劇推しだったのがきっかけで、本当に読んでおいて良かったと感じるもの。一方、周囲にファンが一定数いて読もうと思い立った村上春樹と伊坂幸太郎は全く合わなかった。とくに前者については、登場人物の行動・セリフが感覚的によく分からず、無機質に頭で考えることしかできず、しまいには自分がサイコパスなのではないかと疑い始めるほど。そういえば鬼滅の刃を観たときが似た感覚だったかも。
研究室に配属して通学の時間が短くなった一方で研究が頭を占めることが多くなり、文学は息抜きに特化、好きな分野を深めるように。芥川賞きっかけに円城塔を知ったのもこの頃。プラハのカフカ博物館で大興奮した勢いで「城」を読破したのも。そしてついに「グレート・ギャツビー」に出会った。
村上春樹訳が出て、映画化して、という情報だけ知っていたら後輩が貸してくれることになり、軽い気持ちで読み始めた。ら、とんでもなく沼でした。乗り過ごすほど。1920年代の風景、都会の孤独と自由から生まれるセリフ、不条理といいたい世のルールの描き方、構成の美しさ。読んですぐは「なぜだか良く分からんがどうしようもなく好き、とりあえず私は多分ジョーダンな気がする」みたいな感想だったのでためらいがあったものの、訳者ご本人が相当思い入れがあり好きな作品と語ってらしたのを目にしてからは、迷いなく最も好きな小説に挙げるようになりました。
ちなみに米国では、学校で習う定番の古典の一つで、1920年代風を表す形容詞になっているくらいの知名度のよう。日本だと何が近いかな、、人間失格?違うか、、
そして就職してからは、文学館と人との出会いからさらに好きを深めつつゆるっと範囲も広げつつ、画像とはまた違った本棚を構成しつつあるところです。後編へ続けます。