105 教員以外の経歴 マーケティング
少しだけ自分語りを。
院卒社会人1年目、わたしはマーケティング会社で総合職として勤務した。
マーケティング戦略の基礎を研修やOJTで徹底的に叩き込まれた。
何せ大企業の目の肥えたお偉いさんたちに社会人一年目がモノを売るのだ。
先輩たちのノウハウを、知識をインストールしないと出来るわけがない。
当時わたしがしていたのは、企画、営業、取材、資料作成、データ分析、解析、執筆、出版、販売、調査、市場分析、、、
年間半分以上が都心部への出張。
それだけでなく、日本各地を飛び回る日々。
いずれは英語力も活かして海外調査も、、、と言われていた。
ただわたしの身体は保たず、ある日会社のエレベーター内で倒れた。
その日は、唇は紫になり、手の爪も青くなっていた。41度の熱があった。
その後高熱で1週間寝込むことになる。
高熱が治っても微熱がずっと続く日々を過ごしていた。
普通量ちょっと上くらいの体力しかないわたしには、到底業務量が耐えられなかったのだ。
元々食べないと保たない身体だが、当時は日々の忙しさに食事もままならなかった。
どんどんと体重も減り、上司から日々体調を心配されるようになった。
そして何ヶ月も経って微熱が平熱となった頃、「身体が保たない」と自分の中で折り合いをつけ、辞表を提出した。
仕事はとても楽しかった。身体が保っていたら、きっと続けていた。
ただ楽しいと同時に苦悩もあった。常に営業成績がついて回っていたからだ。
一件200万〜1000万円もする調査を受けるための提案書を企画しないといけなかった。
そしてその調査もチームや個人で請け負っていたのだ。
幸いわたしはそこまで悪い方ではなかったが、それでも次は維持できるだろうか?と不安になった。
営業物の中に、書籍もあった。
一冊10万円以上する本だ。
自分の中で価値を感じられる書籍は飛ぶように売れた。
そうでない書籍の売り上げはそこそこだった。
物販セールスの根本はここではないかと今になって思う。
これらの経験が、さらに他の経験と折り重なり、増幅して、今に活きている。
今はもう営業成績に追われることはない。
自分の自信のあるモノを提供することもできる。
それにお金以上のものも見つけられた。
それでも世の中に蔓延する価値と価格の見合わない商品を目にするたび、自分に問い返す。
「あなたのソレは価値と価格釣り合ってる?」と。