では、岸田・安倍政権にいたる「失われた30年」を作り出したのはだれか? 『自民党という絶望』を読む 4
自民党の歴史を通して、戦後史を観てきたが、では、敗戦という教訓をもとにして、なんとか戦勝国アメリカと付き合ってきたのに、その立場を自ら放棄し、完全にアメリカの「戦利品」という立場に日本を落とし込めたのは誰なのか?ということを明確にしたい。白井聡さんの論考をさらに引用する。
対米交渉のカード=反米勢力を、自ら叩き潰した中曽根
この頃にも、まだ対米従属を通じた対米自立を目指すということが自民党の中に意識として共有されていたのでしようか。
白井 そのあたりの空気みたいなものはよくわかりませんが、ある時期までは、保守の政治家たちも国内の反米勢力の強さを自覚的に対米交渉カードにしてきたことはたしかです。
吉田茂がアメリカからの再軍備の要求を拒んだときや、岸信介が安保改定を申し入れる際など重要な局面で、「自分たちがこの勢力を抑え込んでいる」ということで存在感を示し、反米勢力の強さを利用して戦略的に立ち回ろうとしていました。
アメリカとしても、日本には「反共の砦」として機能してもらわなければならず、自民党にコケられてしまったら元も子もない。だから、 一定程度譲歩せざるを得なかったわけです。
戦後日本の大衆的対米感情を考えるためには、そもそもアメリカなるものが敗戦と同時に洪水のように入つてきたとき、それは大変に両義的なものだったことを忘れてはならないでしょう。それは日本人を大量に殺し、打ち負かし、そして従属させている暴力としてのアメリカと、底抜けに明朗で豊か、自由で民主主義的な、文化としてのアメリカです。この2つの面が同時に入ってきた。戦後の日本人には、文化としてのアメリカに憧れ魅了されつつ、暴力としてのアメリカを嫌悪し恐怖する、というアンビバレントな感情があったわけです。1960~70年代当時は、文化としてのアメリカと、暴力としてのアメリカという、両義的な対米感情を日本人がまだ持っていたと思います。そうしたアンビバレントな感情の中で、ネガティブなものが反米主義的な政治運動として現れていた。
ところが、中曽根政権の頃には、このアンビバレントが解消されている。敗戦の痛みはすでに癒え、ベトナム戦争も過去のものとなる中で、暴力としてのアメリカという側面がどんどん見えなくなっていったのです。
もはや、アメリカは「抗う対象」ではなくなっていったと。
白井 その象徴が東京ディズニーランドですよね。あそこはいったん中に入ると外界がいっさい見えないようになっています。文化としてのアメリカだけを見て、ただ恩恵を享受すればいいんだという、 一種の繭のような世界の中に入って、その外側にあるもの、すなわち暴力としてのアメリカを見なくなっていった。
その時点から、戦後日本の文化も没落してダメになり始めたような気がしています。たとえば、手塚治虫は、もともとデイズニーのアニメーションにものすごく魅せられているわけですよね。「文化としてのアメリカ」を取り入れつつ、そのうえで何を表現するのかと言えば、反戦思想なんです。文化としてのアメリカを使って暴力としてのアメリカに抗うという仕事をしていた。ある意味で矛盾に満ちた戦いですが、そういった葛藤にこそ文化の源泉があるわけです。ここで葛藤を失えば、文化的には幼稚化し衰退していくしかなくなる。その象徴が、外界のいっさい見えない夢の国、ディズニーランドだったように感じます。
それは政治も同じということですか? 対米自立のための対米従属という葛藤が、中曽根政権あたりからなくなっていったということでしょうか。
白井 そういうことです。やがては自立するために従属している、自立する力を蓄えるために従属しているはずだったのが、何のために従属しているのかよくわからなくなってきた。中曽根はもともと対米自立派のはずでしたが、首相の座に就いた途端にレーガン大統領に擦り寄って、ロン(ロナルド・レーガンの愛称)・ヤス(中曽根康弘の愛称)の蜜月ぶりをアピールして喜んでいました。
何よりも大きい変化をもたらしたのは、彼の政策によって社会党が一気に弱体化したことでしょう。中曽根政権が国鉄民営化を推し進めたことで、社会党の最大の基盤である国労(国鉄労働組合)が潰れました。国鉄民営化の第一の目的は、累積赤字問題ではなく労働組合の解体にありました。これは中曽根本人がのちに証言していることです。共産党以外の組織的な反米勢力が、壊滅に向かい始めた。
その後、間もなくしてソ連が崩壊し、東西冷戦が終わります。
白井 だから、中曽根は「最も間抜けなことをやった戦後の首相」ということになります。財政赤字に苦しむアメリカを助けて、東西対立の終焉をアシストしたのですから。東西対立があればこそ、アメリカは反共の砦として日本を大切にせざるを得ず、日本はアジア随一のアメリカの子分という居心地のいいポジションを手にすることができていたというのに、冷戦構造は崩れ、自民党にとつての対米カードだった国内の反米勢力も壊滅的になってしまった。つまり、中曽根は自ら進んで対米カードを捨ててしまったと言えるでしょう。
――アメリカにとって日本の重要性は一気に下がってしまった。本当はその時こそ、対米自立のチャンスだったのかもしれませんが。
白井 1990年前後に根本的に情勢が変わつてしまったわけですよね。ソ連が崩壊したことで、対米従属を続ける具体的な理由がなくなり、日米安保条約も存在理由を失ってしまいました。親米保守というわけのわからない立ち位置も、ソ連があればこそ「今は共産主義という最悪なものと対抗するために、 一時的にアメリカと組むのも仕方がない」という言い訳ができたのですが、ソ連が崩壊することで親米保守というポジションがそもそも成り立たなくなった。だから、自民党は党の原理をここで失ったと言えます。
本来自民党は、改憲派もいれば護憲派もいる、親中派もいれば親台派もいるなど、さまざまな色合いの人たちが、「とにかく共産主義はダメだよね」という一点で集まっていたわけです。ところが、ソ連崩壊によって、その中核的な原理が失われてしまいました。それ以降、自民党は迷走するしかなくなっていきます。
その後は社会党も迷走していきますね。1994年、自民党や新党さきがけと連立政権を組んで社会党委員長の村山富市さんが首相となったときに、「日米安保は堅持、自衛隊は憲法が認めているもの」として、社会党の政策を180度転換してしまいました。
白井 そこは党のジレンマとしてずっとあったのです。アメリカと軍事的な意味で縁を切るというのならば、自前で防衛するのか。それとも原理的な護憲派として、憲法9条の条文通り、いっさい武力を持たない状態を実現させようとするのか。その部分については、政権獲得を想定した議論がなされていなかったと言えるでしょう。
実績ベースで考えるのならば、社会党は、万年野党として万年与党の自民党と55年体制を確立したときから、居心地のよい野党第一党の地位を確保できればそれでよし、という勢力に堕してしまった。政権獲得を本気で目指していなかったのです。だから、自社さ政権(自民党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権)ができたとき、結局は、安全保障に関する事柄で、従来の主張を全部捨てて、現実を丸呑みしたのです。原則もへったくれもあったものじゃありません。そこからどんどん党勢を衰えさせたのは当然でしょう。