さとり
さとりとは何だろう?
刀根健氏の『さとりをひらいた犬 ほんとうの自分に出会う物語』を読了。久しぶりにスピリチュアル系のコーナーに置かれていた本を読んだ気がする。今回は知識や気付きを求めたというよりは、犬を主人公にした時にどういう物語が紡がれるのか、大切なことをどうやって描写するのか純粋に興味があり読んでみた。大枠の伝えたいメッセージは概ね予想通りだったけれど、そこに辿り着くまでの犬達の葛藤や対立は非常に読み応えがあり、感動する場面が何度も出てきて涙腺も緩んだ。
動物が主人公になり、教訓を伝えるという構図は絵本でよくみられる。もちろん、動物だけではなく、時には植物や架空のキャラクターのこともある。そして、その世界観は子供はもちろんではあるが、大人でも楽しむことができる。そういう視点で考えてみると、ヒトは生まれながらにしてアニミズム的な思想や信仰を持っているようにも思える。そうでなければ、ディズニーランド然りテーマパークやキャラクターグッズが流行らないようにも思う。その一方で人間至上主義的な考えに陥ることも多々あり、それが同一人物の中でも環境や状態によって入れ替わるから、ヒトというのは本当に不思議な生き物だ。
さとりについては、いまだによく分からない。これまでの人生で、自然に魅了され感謝の気持ちで涙が溢れたり、何となく宇宙を感じた瞬間を体験したことはある。その時は、頭の中がクリアになっていたようにも思う。ただ、それがさとりなのかどうかは分からない。自分自身と世の中に存在するあらゆるものの関係性が調和に満ちた時に、そのような状態になるのかもしれない。ただし、調和された状態というものを言葉で定義するのも難しい。
そもそも、さとりという言葉にした時点で、一人一人違った体験をもとに感じたことや思考したことがその言葉にラベリングされているから、一人一人が思い描くさとりを共有することはほぼ不可能なように感じる。共通言語はヒトとヒトのコミュニケーションを紡ぐ大切なツールであるのに、抽象化して言葉にするからこそ共有できなくなる多義性が含まれており、共有化は永遠に出来ない。このパラドックスはどうしたら解消されるのだろうか。
さて、さとりに続く動詞としては、この著書然りで、ひらくという言葉がよく使われる。ただし、生命が関係性の中で成り立つのであれば、さとった状態というのも関係性の中でこそ現れる状態ではないか。そう考えると、それは能動的なものではなく、受動的な中でしか現れないのかもしれない。つまり、さとりたいと考えている限り、さとれないのかもしれず、ここにも難しいパラドックスが存在している。
ある関係性が成り立つかどうかは、量子科学の観点からすると確率論でしかない。量子科学が全てとは言わないけれど、ある一定の関係性が成り立ったときにさとりがひらかれるのだとすれば、さとれるかどうかも確率である。その確率に対して、能動的に寄与できる割合がどの程度なのか。少なくともそれはゼロではなく、多少はあるからこそ、ひらくという能動形が使われるのかもしれない。
若干、言葉遊びになってきた気もするが、書きながらも少し面白さを感じた時間だった気がする。そのような状態になれる一冊に出会えたことに感謝しつつ、良い眠りにつけれたらいいなと思う。