欄干に踊る女
欄干に踊る女
アレクサンドルⅢ世橋の欄干の上で、マドモワゼル マルティーヌ・デュポンが踊る。
ひと気の絶えた真夜中の街を濡らす、冷たい雨に打たれながら、マルティーヌ・デュポンは、欄干の上で器用に踊り続ける。
古びたガス灯の薄明かりに照らされて、一尺半幅の石の欄干の上で、マルティーヌは見事に踊る。
踊り終えたマルティーヌは、私のもとに駆け寄って、
「今夜は先に帰っていて。少し用があるから。私もじきに戻るわ。」と、耳元でささやく。
私はマルティーヌ・デュポンに言われたとおり、彼女と私が暮らすアパルトマンに、独りで戻ることにする。
でも、どこにそのアパルトマンがあるのか、私にはよく判らない。
知らない道を半時間ほど歩き回って、私達が住んでいるらしいアパルトマンに辿り着く。
2emeエタージまで螺旋の階段を上り、三つの内の、真ん中の扉の鍵穴に、時代物の鍵をさし入れてガチャリと回し、ゆっくりと扉を押して、部屋の中へと入り込む。
真っ暗な部屋の中を手探りで進み、壁に埋め込まれた電灯のスイッチを入れると、40Wのクリアガラスの電球の灯りに、真っ白な漆喰壁の部屋が現れる。
麻布に覆われたフォトゥィユ。
白く塗られた籐のテーブル。
小さなアンティーク・ライトスタンド。
マントルピースの上の12/150と記された、作者の判らぬ風景画のリトグラフ。
それに、この部屋にはあまりそぐわない、スチール製の本棚。
どれも見覚えのあるような無いような、はっきりとは私の記憶の中に現れてこない家具が、幾つも配置されている。
それより、私は本当に此処に住んでいるのかいないのかも曖昧になって、何か所在のない気分に襲われる。
それでも私は、マルティーヌが帰ってくるのを、この部屋で待つ。
フォトゥィユに腰掛け、本棚から選び出した、シャルル・デュトワのエッセイを読みながら。
やがて、ふと思う。マルティーヌ・デュポンは、果たして本当に此処に戻ってくるのかどうかと。
いや、そもそもマルティーヌ・デュポンは、私と此処で暮らしているのかどうかと。
アレクサンドルⅢ世橋の欄干の上で踊っていたのは、マドモワゼル マルティーヌ・デュポンなる人物であったのかどうかと。
それでも私は、マルティーヌ・デュポンを此処で待ち続ける。
とろけるような甘い睡魔に誘われて、夢の中に漂っているのか、現の中に覚めているのか判らぬままに、マルティーヌの現れるのを待つ私を眺めている私........
幾時間かが経過し、やがて記憶の空白の先に、私は目覚める。
でも其処は、マルティーヌを待ち続けたあの部屋ではない。見覚えのある、いつもの私の部屋。
コーランクール通りの小さなアパルトマン。
向かいのブーランジュリを出入りする人々の、朝の挨拶の声が聞こえる、いつもの私の部屋。
白い漆喰の天井についた、小さな動物のような形をしたしみを見つめながら、私はベッドの中で考える。
此処はマルティーヌと私が暮らしている部屋ではない。
結局、昨夜、彼女は此処には戻ってこなかった。
当たり前のことだ。私はマルティーヌと暮らしてなどいないのだから。
えっ! 一体マドモワゼル マルティーヌ・デュポンって誰?
私は彼女を知らない。
では昨夜、アレクサンドルⅢ世橋の欄干の上で踊っていた、あの娘は誰?
いや、昨夜私はずっとこの部屋にいた。
隣の酒屋から買ってきた、一寸上等な赤ワインを飲みながら、私は記憶の皿からこぼれ落ちそうになっている様々な事柄に、想いを巡らしていた。
想い出そうとしても想い出せない、私の前を通り過ぎていった沢山の人々の名前。
忘却の中に息を潜めている男や女のベールを、一枚一枚剥がそうと私は躍起になっていた。
最後のワインが胃の中へ流し込まれたとき、私はこの虚しい作業を中断して、ベッドへともぐり込んだのだ。
それから程なくして、私はアレクサンドルⅢ世橋の欄干の上で踊る、マルティーヌ・デュポンに出会ったのだ。
嗚呼、でもそれから先のことが想い出せない。
さっきまで覚えていたはずなのに、記憶が何かに吸い取られるように失せていく。
マルティーヌの顔形も、声も、姿すら想い出すことができない。
こうして欄干に踊る女のことは、すっかり私の頭の中から消えて無くなってしまうのだった。
「マルティーヌ、君は誰?」
2006/2 à Paris 一陽 Ichiyoh
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