あたらしい家路
トレンチコートの襟を触って、彼女はベンチに座った。帰宅途中だった。
亡き母から譲りうけた指輪をながめた。それは彼女にとって思い出すことにほかならない。アイテムの数だけ思い出がある。幼少の頃からいままで、朝も昼も夜も、眠りの記憶までもが彼女のアイテムたちには宿っている。
キーホルダーを眺める。マンションの鍵、自転車の鍵、男の家の鍵……捨ててくれといわれてまだ捨てていない、過去の男の鍵。彼女は男との思い出をながめながら、その鍵を外した。
車線の流れをながめる。軽トラックに乗せられた思い出もあれば、ポルシェに乗せられた思い出もあった。
空港からのリムジンバスが横切った。それをながめながら旅行の記憶をたどった。そのとき、ふと、予約せずにいまから飛行機に乗ってみることに彼女は思い至った。
立ち上がり、タクシーをとめてみる。乗ってみる。夜の上空からどこをながめることになるのかとかんがえてみると、胸が弾んだ。
タクシーを降りて空港に入る。さっそくロビーでいま空いている飛行機ならどこ行きでもいいから乗せてくれないかというと、搭乗は事前に航空会社の窓口で手続きをする必要があるため、無理だという。
どうしてもできないということだった。受付の女は、あまりにも申し訳なさそうにそれをつたえてきた。その対応が、あなたにはそんな自由はありません、そんな不幸に同情します、といっているように聴こえてしまい、彼女は目を伏せた。
展望台に入った。滑走路に目をやった。飛行機たちが滑走路をゆっくり動いている。その右上の夜空から飛行機が降りてくる。窓のあかるさまで見えてくる。
空港に帰ってきたばかりの旅行者は、いつも自分があたりまえのようにいるホームを新鮮なまなざしでながめることがある。彼女は、そんなまなざしを持ったときのことを思い出していた。
もう一機、夜空を旅客機が着陸してくる。彼女はもう一度、あのまなざしを持てるようように、と、それをながめやった。