享楽の説明の問題
例えば過度の飲酒などの行為を功利主義的な説明モデルで説明することができるのか。対象aの享楽を功利主義的なモデルで説明できるのか。まずは功利主義的なモデルというのはなんなのかを考える。
僕が功利主義的なモデルといって考えているのはスピノザの、世界を身体(物)の出会い、組み合わせとして考える話である。ある身体は別の身体と出会い、組み合わさることによって、また別の構成関係に入る。薬という身体は私の身体と組み合わさり、ある部分において〈よく〉作用する。対して、毒とされるものは、私の身体と組み合わさり、私の身体という構成関係を分解し、別の構成関係へ移行させるように作用する。毒は私にとって〈わるい〉。
享楽を功利主義的なモデルで説明しようとして問題となるのは、誰にとって〈よい〉のか〈わるい〉のかという問題である。例えば、飲酒は現在の私にとって〈よい〉。未来の私にとっては〈わるい〉。
行動するときには我々は我々にとってよい出会いとなるように行動する。問題は過度の飲酒、過度のラーメンといった享楽である。我々にとってわるいと思われるものを、我々は肯定し、選択する。メタ的な主体を登場させるやり方がある。〈メタ〉される私にとってわるいものであるが、メタ的な私にとってはよいものであるという考え方である。ここでいわれているのは、あくまで私にとってよいものを我々は選択しているのだということである。ここにおいてどうやっても我々の指先は悪に触れることがない。
ここにおいて、問題がある。よいからその対象を欲望するのか。欲望するからそれをよいと判定するのかという問題である。そして、この問題を取り出してみて、思い浮かぶのが、〈よい〉or〈わるい〉は実体を持って存在するようなものではないということである。つまり、何物もそれ自体だけを取り出して見た場合、よくもわるくもないという話である(これは関係ないが、シニフィアンが他のシニフィアンとの連結においてのみ意味を持つという話と何か似ている)。
前者の話についてであるが、スピノザは欲望するものをよいと判断すると、どこかでいっていた気がする(『エチカ』第三部定理九備考末尾)。“われわれはそれがよいと判断するがゆえに努め、意志し、欲求し、欲するのではない。反対に、努め、意志し、欲求し、欲するがゆえにそれをよいと判断するのである。”(『エチカ』第三部定理九備考全集p.128) ちなみに次の定理一〇は“われわれの身体の存在を排除するような観念はわれわれの精神の中に与えられることはできず、むしろわれわれの精神と相反する。”とある。この定理一〇の証明には“われわれの身体を破壊しうるものは何であれ、身体において与えられることはできない(この部の定理五により)。とすれば、神がわれわれの身体の観念を持つ限りでは、神の中にそうした事物の観念が与えられることもできない(第二部定理九の系により)。すなわち、そうした事物の観念がわれわれの精神の中に与えられることはできない(第二部定理11および13)”とある。
この定理一〇では十全な観念を持つ限りに我々の身体の構成関係を分解(破壊)するようなものは精神と身体において存在できないといっていると思う。非十全な観念を持つ場合においては破壊するようなものも与えられうると思う(いや例えば、自死のケースなどもあるし一概にそうともいえない)。
閑話休題。よいわるいの判断はあとからなされる。ただあるのは欲望とその対象だけである。よいから欲望するとかいった話はスピノザにおいても出てこず、むしろそれを否定している。享楽といった行為はただそれとして認められる。行為のあとでよいやわるいといったことがいわれるのみである。
功利主義的なモデルというのがよりよい欲望の対象を選択するものであるとして、そうしたモデルは別にスピノザの考えでもない、ただの僕の素朴な考えであるということがわかった。
人はよいものをよいから欲望しているわけではなく、たださまざまな欲望があるだけである。
一目わるいとしか思えないようなことに人は飛び込んでしまう(つまるところ、過度の飲酒や危険な山登り)。スピノザは確かどこかで欲望は過度であるとダメだ的なことをいっていたと思う。象徴界=法(シニフィアン)は過度な欲動を止める働きがあるといえる。知らんけど、スピノザの哲学全体がそうした象徴界であるといえる。
精神分析での説明の方は何も問題がない。そこには対象aの享楽があるのだといえばいいだけである。引き続き、精神分析の勉強をいまはやっていきたい。今回は自分の頭を整理するためにも以上のような思考のラインをかたどった。