『ラカン入門』向井雅明の感想

 向井雅明の『ラカン入門』を一応、通読したので感想を書こうと思う。量、ページ数もなかなかあるし、これをまとめるのは骨が折れるし、また理解もできていないので、今回は定義にあたるところ、気になったところ、重要なところを恣意的に抜粋、引用したリストでも作ろうかと思う。そのあとで僕の感想をおく。

引用、抜粋


 “イマーゴとは、個人が他人を把握する際にモデルとなるイメージで、父親のイマーゴ、母親のイマーゴなどとしてある、無意識的なパターン化されたイメージである。”p.25
 “精神分析は意識の特権を否定し、実体をもたない、分裂した主体というものを考えようとする。”p.45
 “シニフィアンの選択は、シニフィアンの場ともいえる場においてなされる。辞書はその一つの例である。そこはシニフィアンが同時に共存する場で、時間の流れには無関係であり、いわば広がりを持った場的次元である。これを共時態と呼ぶ。それに対し、一つの文章の結びつきは時間の流れに従って構成される。こちらの方は線的な関係で、これを通時態と呼ぶ。”p.56

“一つの文章は最後の単語が発せられて初めて固定した意味をもつ。シニフィアンとシニフィエの関係は逆行的にある。図3を見ていただきたい。水平に流れる線はシニフィアンの流れを表すもの、そして、もう一本の線はシニフィエが生まれるために必要な線である。右下の三角形の印は、意味しようとする意図を表す。われわれが何かを言おうとするときにはシニフィアンを使って表現するほかない。この表現意図が最初にシニフィアンの線と交わるところはシニフィアンの貯蔵庫を表す。ラカンはシニフィアンの宝庫と呼び、共時的な言語の場で他者(A)の場である。Aにおいてシニフィアンの選別が行われ、文章が始まる。次にこの線は下降し、もう一度、シニフィアンの線と交わる。これは、文章が終わり、句読点が打たれる場、メッセージが成立する場で、意味が生じるシニフィエの場である。”p58
 “隠喩は、一つのシニフィアンを他の一見何の関係もないシニフィアンに置き換えることによってつくられる”p.67
 “ラカンは換喩を「一部分で全体を表すもの」と定義して”いる。p72
 “換喩的機制が隠喩的機制と区別される点は、隠喩がまだ明白に成立していないシニフィアンどうしの関係から、新しい関係が生まれるのに対し、換喩は、シニフィアンの間ですでに存在する関係によって結びつき、隠喩のように違反と承認の現象は見られないということである。”p.73
 “無意識に置かれたシニフィアンを、ラカンはnon-rèalisè(現実化されてないもの)と呼んでいた”p.86
 “この無意識にとどまる現実化されていないものが承認を求めて出てこようとする運動を、ラカンは欲望と呼んだ。”p86
 “言葉でなされる要請と現実界の欲求の間には一つの亀裂が生じ、この亀裂を埋めようとすることが欲望とよばれるようになる。”p.93
 “ラカンはこのことを指して、「愛とは、持っていないものを与えることだ」と言っている”p.95
 “それ(アウフヘーベン)は与えられたものが否定された後、その否定から新しいものが生まれるという、ヘーゲルの基本的弁証法を表している。”p.95(アウフヘーベン)はこの記事の筆者が付け加えた。
 “上では、主体をメビウスの輪の歪みとその切断を使って説明しようとした。それは、一般的に考えられているような実体を持った意志的な主体、心理学的主体とは異なり、何の実体も持たないもの、人間という動物が言語世界に入る結果生まれる一つの効果、シニフィアンの効果である。”p.145
 “ラカンは彼の理論的出発点ともいえる「鏡像段階」の論文以来ずっと、主体を、二面性を持ち矛盾を含むものとして考え、全体的統一性を持つ実体とする考え方に反対してきた。”p.146
 “主体は人間の中心にあってその現実を支配する統一性をもつ実体であるという自らの幻想を打ち砕かれ、逆に自分自身に矛盾を含み、何の実体ももたず分裂したもの、言語活動の一つの結果ないしは効果であるという、無の場所に落とされてしまった。”p.147
 “主体の存在欠如は、どのような形をとって表れるのだろうか。欠如とは、否定的存在であるゆえに、直接捉えることはできない。それは、常に何かの欠如として表現される。主体は自らの存在欠如を〈他者〉の欠如として認めるのである。つまり、主体は〈他者〉の欲望として自らの欲望を経験するのだ。ゆえに〈他者〉の欲望を満足させるということは、そのまま自らの存在を決定することに結びつく。ラカンの有名な命題、「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」の一つの意味がここにはある。”p.148
 “ーー外傷性神経症。戦争などで心的外傷を受けた者が、その苦悩に満ちた思い出から逃れられないというケースにおいて、患者がどうして快感原則に従っていやな経験を忘れてしまわないのか理解できない。
ーー以前に扱った子供のFort-Daの遊びにおいては、子供が母親との耐え難い別離の思い出に執着する理由が不可解である。
ーー分析において、転移現象下で患者は苦痛を伴う経験を生々しく再生反復する。また、陰性治療反応が始まると。症状の苦しみにもかかわらず、患者は分析家の解釈を受け付けようとしなくなり、治療の方向に逆らい、そのあげく分析を中断しようとさえする。
 これらのことからフロイトは、快感原則の奥に、より根本的な原則があるのではないかと考え、これを死の欲動と名付けた。”p.226
 “享楽とは現実界と結びつくもので、それに対して快感(Plaisir)は、享楽(Jouissance)を主体を過大な苦痛から護るものとしてある。享楽は快感原則の彼方にあって、いわば過大な快感、つまり苦痛であり、両者は相反の関係にある。”p.234
 “ラカンの理論的転換を示す一例に、幻想のマテーム(S/〈〉a)がある。このマテームが最初に考えられた頃、そこに記されたaは想像的他者(autre)を表すものとされていた。aはautreの頭文字である。それは主体が去勢を前にしたとき、それを隠すために他者のイメージを置くことを意味する。ところが後になって幻想が現実界と結びつけられるようになってからは、aは現実界の次元のものとして対象aと呼ばれるようになったのである。”p.308
 “分析が始まるためには、患者が自らの症状の裏に自分自身も知らない意味を想定し、それを知ることによって症状の苦しみから逃れることができるのではないかと疑問をいだくこと、そしてその鍵を持っているのは分析家であると考えることが必要である。つまり患者は、分析家に一つの知を想定するのである。このことをラカンは、想定的知の主体(Sujet supposè Savoir)と呼んでいる(以後SsSと略す)。”p350
 “ラカンの有名な公式、「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」が成立するためには〈他者〉を必要とし、そもそも「〈他者〉はない」というなら、何らかの形で〈他者〉を一種のフィクションとして構築しなければならないからである。まず〈一者〉の享楽があり、それを耐えられるものとするために〈他者〉を構築して、ファンタスムをつくり、そこから欲望を成立させ、その欲望を追求しながら人間は生きていくのだ。”p.394
 “われわれが物語に捉えられるのは、われわれのなかにも同じようなファンタスムがあるからで、そうしたファンタスムをもっていない人にとって小説は何の興味も惹かない。”p.404

感想


 はじめにいってしまうと、通読はしたものの僕にはわからない部分がかなりある。かといってまるっきりわからなかったわけでもなく、わかっている部分もあると思う。『ラカン入門』は確かに入門書ではあるが、難しいところは普通に難しい本である。入門書として詳しく書いてあるところはそう書いてある。画像付きで引用抜粋したおそらく文章の生成を説明しているグラフは説明を読んでギリギリわかる。ちらっと再読してよく読んでだいたいわかった。そのグラフがギリギリわかるレベルなので、ゆえにそれ以降に出てくるようなグラフ、図形は僕は理解できていない。文章もわかっていないところも当然いっぱいあるが、一応は通読したということだ。
 引用したところは、最初の方は何か概念の定義にあたるところの引用。後半は付箋を貼ったところぱらぱらとページをめくり、面白いと思ったところを抜粋させてもらった。
 おそらく主体の問題がこの本の一番の重要点だろう。勝手に思っている。無意識が主題として書かれていたというよりも主体の問題がよく語られていたと思う。
 ラカンのいう主体とは普通一般の統一的で実体があるような主体とは異なる。引用したように、実体というものがなく、“言語活動の結果”にすぎないものだという。著者は主体を“シニフィアンの効果”ともいう。
 正味の話、この主体の概念が難しくよく把握できていない。この主体概念は他の本なども読みつつ、また理解したい。とにかく、普通の意味で使われている意味、つまり主体とは統一的、中心的な実体であるという主体の意味は、むしろラカンにおいては批判の対象だということである。
 ドゥルーズは主体という考えを批判していたと思う。ラカンも同様にありきたりな主体概念を批判するが、主体という言葉自体は使う。そして、主体とは言語活動の効果にすぎないものだというのだろう。
 ドゥルーズの場合は主体という言葉自体を使わない(知らんけど)。“動物であれ、人間であれ、これをその形やもろもろの器官や機能から規定したり、主体として規定したりせずに、それがとりうるさまざまの情動から規定するようになるだろう。”(ドゥルーズ『スピノザ』p239)

 “ーー外傷性神経症。戦争などで心的外傷を受けた者が、その苦悩に満ちた思い出から逃れられないというケースにおいて、患者がどうして快感原則に従っていやな経験を忘れてしまわないのか理解できない。
ーー以前に扱った子供のFort-Daの遊びにおいては、子供が母親との耐え難い別離の思い出に執着する理由が不可解である。
ーー分析において、転移現象下で患者は苦痛を伴う経験を生々しく再生反復する。また、陰性治療反応が始まると。症状の苦しみにもかかわらず、患者は分析家の解釈を受け付けようとしなくなり、治療の方向に逆らい、そのあげく分析を中断しようとさえする。
これらのことからフロイトは、快感原則の奥に、より根本的な原則があるのではないかと考え、これを死の欲動と名付けた。”p.226

 嫌なこと、マイナスなことへ向かう心理が快感原則では説明がつかない。ゆえにマイナスな方向へいく原理を考えたということだろう。快感原則が一体なんなのか僕はあまりよくわかっていない。ラカン以前にフロイトを先に読むべきなんだろうな。うむ。

 “分析が始まるためには、患者が自らの症状の裏に自分自身も知らない意味を想定し、それを知ることによって症状の苦しみから逃れることができるのではないかと疑問をいだくこと、そしてその鍵を持っているのは分析家であると考えることが必要である。つまり患者は、分析家に一つの知を想定するのである。このことをラカンは、想定的知の主体(Sujet supposè Savoir)と呼んでいる(以後SsSと略す)。”p350
 この考え方はよく知っている。内田樹の本でこの話、あるいは類似した話を読んで知っている。他者を師としてとらえること。師が知を持っていると想定すること。これは他者を超越的なものとしてとらえることだろう。これは道徳的な倫理を形成する考え方だ。対してスピノザの場合はそれに対して、超越的なものをなくし、内在的な哲学を敷く。エチカという倫理を展開する。
 超越なものが、はったりや嘘を含むのならば、それは否定されねばならない。宗教というものをよく知らないが、宗教的なものがある。
 個人的には他人を考えるときには「他者」という概念、考え方を採用していると思う。僕の場合、両方の考え方が入り混じっている。内在、エチカはエゴイズムである。エゴイズムはまあしかし問題のある言葉だ。コナツスによる展開されるものが内在の哲学だ。対して、超越的な哲学の場合、そうしたコナツス、エゴは否定されるものだ(レヴィナスならばそうしたエゴを否定するだろう)。内在の哲学は、知らんけど、無責任なものだ。ニーチェの秘密。無責任ということ。対して、一般社会は統一的実体的な主体というものをなくすことはできない。主体がなければ、責任を問うことができない。怪物としての内在の哲学。無責任により軽くなったもの。

 “ラカンの有名な公式、「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」が成立するためには〈他者〉を必要とし、そもそも「〈他者〉はない」というなら、何らかの形で〈他者〉を一種のフィクションとして構築しなければならないからである。まず〈一者〉の享楽があり、それを耐えられるものとするために〈他者〉を構築して、ファンタスムをつくり、そこから欲望を成立させ、その欲望を追求しながら人間は生きていくのだ。”p.394
 “われわれが物語に捉えられるのは、われわれのなかにも同じようなファンタスムがあるからで、そうしたファンタスムをもっていない人にとって小説は何の興味も惹かない。”p.404

 ファンタスム、幻想について書かれたものをもっと読みたい。この本では現実性(現実)と現実界が区別して説明されていた(p329において)。現実は幻想的なものである。対して現実界はまず最初の意味では物理世界のこと。そして、次の意味では、象徴的なものでもなく、想像的なものではない穴のようなものだろう、知らんけど。アナロジーとして、物自体があげられるだろうか。
 我々は幻想(現実)の中で生きている。当然、幻想が一体どういったものであるかは問題である。勉強したいところだ。
 完璧を目指せば、そもそも僕はこの本を理解していないので、この記事は完成しない。よって今回はこれくらいにして、『ラカン入門』を一応読んだということにしておこう。


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