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人は不自由だから自由のために本を読む
「なぜ人は本を読むの?」
「不自由だからさ」
人間というものは不自由な存在である。
生まれたての赤ん坊の時は比較的、自由な状態と言えるかもしれない。
とはいえ、ずっとそのまま自由でいられるわけではない。
人間は社会生活を送る生き物である。そして、その社会は時代とともにますます複雑化している。
人間が社会から要求されることも複雑化する一方である。
我々は人間であるために、その複雑化する要求に応え続けなければいけない。
人間社会において一人前の人間になることとは、すなわち自由を捨てて不自由な存在になることと言えるのかもしれない。
若い頃は、好きなように生きていた。
具体的なことを書くのも憚れるほどに、本当に自由に生きていた。若い頃の私には、社会が見えていなかった。
私が生きていたのは、真っ白で広大なキャンパスの上だった。その上で好きなことだけをやって生きていた。
怖いものなど何もなかったし、何より若さゆえのエネルギーがあった。
そんな私も年を取り、今では二人の息子の父親である。
何にも縛られず好きなように生きるには、人生の積み荷が多くなってしまった。
若さゆえのエネルギーも尽きてしまった。
昨年、転職をした。
今更なのだろうが、四十五歳にして初めて、仕事というものにちゃんと向き合ってみようと思ったのだ。
学ばなければいけないことばかりで、反省と勉強の日々である。
それでも、その頑張りの先に何かあるはずだ。そう信じて頑張っている。
が、たぶん、その先にはそんなに何もない。
仕事というのは、人類が発明した最も愚劣な行為である。
以前から私はずっとそのように提唱していたが、その思いがますます強くなっただけである。
それでも仕事は頑張る。
その先に何があるとか考えない。
そういうものだから。
頑張る。
不自由な社会で不自由な存在として頑張っていくために、自由をチャージする必要がある。
社会の要求に応えている以外の時間は、なるべく自由でありたい。
自由とは何か。
自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従って、自分の心のままに行動できる状態のことである。
自由を得るための基本的かつ究極的な方法。
それは、芸術活動を行うことである。
自分だけのオリジナルな何かを創作すること。
それはまさに、他からの強制・拘束・支配を受けず、自分の心だけを拠り所にした行為に他ならない。
場所や時代を問わず、どんな社会で生きていようが、何かを創作しているその瞬間だけは、タコ足配線の如くがんじがらめに繋がれた社会の要求から解放され、自分だけの世界を生きることができる。
そして、創作活動というのは、それを職業としている人間、すなわちプロのアーティストのためだけにあるものではない。
プロでなくとも、バンドを組んでライブ活動をしている人、イラストを描いてネットに挙げている人、コスプレやモデル活動をしている人、様々な人がいる。
むしろファンや顧客のためでなく、自己の満足のためにやっているという点において、プロよりもアマチュアのほうが自由度に関しては圧倒的に高いと言えるだろう。
私もバンドをやっていたし、辞めてからも、絵を描いたり、モデルをやったり、小説を書いたり、友達と映像作品を作ったり、細々とではあるが、何らかの創作は途切れることなく行ってきた。
誰かに承認されたいとか、伝えたいメッセージがあるというよりは、ただしっくりくるというか、心が安定するからである。
やはり何かを創作することによってしか、得られない実感があるのだ。
その瞬間だけは社会のすべての要求から切り離され、他の誰でもない自分自身によって創り上げられた世界を生きているという実感。
自分がただ一人の自分であるという実感。
それすなわち、自由である。
とはいえ、創作活動をするには絶対的に必要なものがある。
時間である。
最近は仕事およびそのための勉強に時間を奪われっぱなしであるし、家族との時間ももう少し設けたい。
何らかの創作活動をするには、あまりにも時間が足りない。
昨年は、創作らしいことはほとんど何もできなかった。
おそらく、一曲の曲も作っていないし、一枚の絵も描いていない。
しんどい一年だった。
羽をもぎ取られて、社会の要求に足を取られながら地べたを這いずり回っているような。
時間はない。だが、自由を得たい。
何かを創りたい。
勉強に疲れた私は、部屋の机の脇にある本棚をじっと見る。
そこには今まで読んできた様々な本が並べられている。
ふと一冊の本を手に取り、ページをめくる。
何度か読んできた、私の好きな小説のひとつだった。
時間があるときは仕事に役に立つ本を読むようにしていたので、小説を読むのは随分と久しぶりだった。
やはり、面白い。
ページをめくり、そこに記された文字を追っていくにつれ、頭の中に世界が広がっていく。
その時、私が感じたのは、自由だった。
そうだった。
本を読むこと、それ自体がひとつの創作活動なのだった。
本というものの中にあるのは、文字だけである。
文字、それは「この形にはこういう意味があり、こう発音することになっています」という単なる約束記号に過ぎない。
壮大なSF小説の中にも、人間の本質を描く文学作品の中にも、存在するのは文字だけである。
本それ自体の中には何もない。
風景も、音も、匂いも、手触りも、何もない。
それでも私たちはその記号の集合でしかない本というものの向こうに、壮大な未来の世界を見たり、人間という存在の深淵を見たりする。
それどころか、その世界の中に入り込み、それを疑似体験すらする。喜びや悲しみや救いを得る。
そこには文字、つまり線でできた単純な記号しか存在しないというのに。
それは、音楽家が楽譜を見ただけでメロディーが頭の中に浮かんでくることに似ているかもしれない。
要するに、本を読むという行為は、単なる記号の羅列から自分の中にオリジナルの世界を創り上げる行為に他ならないのだ。
そして、その創り上げた世界は自分の頭の中だけに存在し、自分以外の他の誰にも見ることも感じることもできない。
勿論、自分以外の他の誰にも同じものを創ることはできない。
完全な自分だけのオリジナルの世界である。
これを創作活動と言わずして、何と言えるのだろう。
というわけで、誰でも今すぐ自由になる方法。
それは、読書である。
今年は読書という行為をあらためて見つめ直し、掘り下げる一年にしたいと思う。
みなさんも社会に不自由を感じ、解放されて自由になりたい時は、本を読んで、誰にも立ち入られることのない自分だけの世界を創造してみてはいかがだろうか。
それはこの世で最も基本的で最も贅沢な自由の形かもしれない。
わりと本気でそう思います。
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