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きっと誰かが見てくれている

「いつだって見ている人は見てくれているよ」という言葉を私の尊敬する人はどの人も言っていた。

小学校時代、陰で誰かに褒められるわけでもなく日々を過ごしていた私にとって、その言葉をはじめて聞いた時は衝撃で、以来ずっとお守りのように胸に置いていた言葉だった。
自分のことを好きになれなかった頃の私は、ただただ真面目に生きることでしか報われないと感じていたのだと思う。

だがそんなふうに生きていても陰口や嫌味を言われる日は訪れた。それ以降は生きていくほどに私の本当にやりたい事がどんどん中の方へ埋もれていって、本音を言うこともままならず真面目の皮をかぶっているのも疲れてしまうようになった。

どんなに表向きに素敵な言葉を吐いていても中身が伴っていない人や、綺麗事を言いながら平気で裏切る人を沢山見ていく中で流石に人間不信になってしまい、それ以降は真面目に生きるだけ馬鹿を見るのだ、と適度に手を抜いて生きていかないと自分がダメになってしまうと感じるようになった。

年々、力を入れすぎずに肩の力を抜くようになって、いつの間にか誰にも期待しないで生きるようになっていた気がする。

今でもそれが自分の生きる術としてスタンダードになったのは大きいと思う。どんなに人と仲が良くなろうが、その人に頼り甲斐があろうが、意見はあくまで求めてみるだけで最終的なことは自分で決めてきた。
助けて、助けられて、お互い様です、くらいの生き方の方がだいぶ気が楽だったから。

だが、ここ数年で珍しく、自分の命がエネルギーをある限りしっかり使おうと反応する場所ができた。それが保育園だった。

未来がある、いくらでも変われる可能性を秘めている、そしてまだ何にも染まりきっていない彼ら彼女らになら、自分の時間も力も使えると素直に思えた。

人が変わっていく瞬間を見ることは自分にとって大切な時間なのだと実感した。子ども達一人ひとり、成長する過程でみんな自分なりに考えて行動するようになっていくけれど、勇気を出して何かをした時に誰かがきちんとわかってくれた、見てくれていた、という事実があったかどうかで子どものその先の過ごし方は変わっていくと思う。

だから私はできるだけ、他の人が気づかない部分まで子どものさり気ない行動を見たり、他人に対しての言動を聞くようにしている。「自分のことをちゃんと見てくれているんだ」という事が子どもに伝わると、得られる信頼はとても大きいものになる。

ただ、それは途方もない時間がかかる事だし、結果どれだけ多くの子ども達から信頼を得られようが誰かに讃えられるわけではない。

でも、いつか誰かをいじめたり誰かにいじめられたりする未来が訪れないように、そして自分と周りの人を大事にできるように、あとは好きなことをどこまでものびのびできる人に育つように、どの子にも願いを込めながら数年間関わってきた時間は私にとってかけがえのないものになっている。

この子はよく褒めた方が伸びるだろう。この子はあまり褒められるのが好きじゃないので、さりげなく頑張っていたのを見ていたことを伝えようかな。あの子は何でもできてちょっとマンネリ気味で退屈そうだけど、ワンランク上の伝え方をしてたらもっと伸びそうだ・・・。
分析をして丁寧に日々接していたら、その成果のようなものを感じられる瞬間がついこの前訪れた。

今の園に来て一番初めに担任をした子どもたちが年長になり、最後の登園日を迎えた日。
最終日は全員に挨拶が終わるまで保育園にいたのだが、普段はゆっくり喋る時間がない保護者の方と話をしたとき、思っていた以上に保護者の方がこちらの行動を見てくださっているということを知る機会があった。

たとえば、「親がお迎えに来て子どもを呼びにいく」というたった一つのさりげない行動でもしっかり見てくださっていた保護者の方がいた。

私は、できるだけ保護者の方が来たら早めに察知して無理やり子どもの遊びを終わらせないように、そっと声をかけるようにしている。
保護者の方が急いでいる感じだったらさりげなく子どもの片付けを手伝う・・・とか、とにかく誰もストレスが溜まらないようにサポートできれば良いなと思いながら保育にあたっていたのだが、それを見てくれていた方がいて、しかも直接伝えてくださったことは嬉しかった。

また、ある保護者の方は私のことを、「この子にとって先生でもあり、歳の離れたお兄ちゃんのような存在だったと思います」と言ってくださって、その言葉にも胸がいっぱいになった。

そしてその日は、2歳クラスの頃に一緒に担任をしてから長らくお世話になっていた先生と一緒にお仕事ができる最後の日でもあった。
いろんな事に気を配ることができてとても尊敬している先生なのだが、その方が異動される前に手紙で私に伝えてくださったことがある。

「先生は担任の私たちじゃ抱えきれない、子ども達の本音の部分を丁寧に聞いてくれる存在でした」
「先生を通して、子ども達の好きなことが増えました」

頑なに悪さを認めなかったけれど少しずつ素直になろうとしてくれていた子、自己中心的だったけれど会話をしていく中で人を思いやれる人になっていった子、絵を描くことに苦手意識を感じていた子が自分から前のめりにそれを楽しめるようになった子、数人から始まった手紙のやりとりを見て自分も書きたいと一生懸命言葉を綴ってくれた子、何度か踊りを披露したことで自分も体で表現できるようになりたいと声をかけてきてくれた子・・・。

「自分の姿で誰かを変えたい」
いつか誰かに対してこんな事ができたらいいなと願ってきた事が、気づけばいつの間にか叶っていた。

尊敬する先生からそのような言葉をいただいたときに「いつだって見ている人は見てくれているよ」という遠い昔に埋もれたはずの言葉が蘇ってきた。
歳をとるほど、いつの間にかその言葉をあてにしすぎないように徐々に手放していったけれど、子どもの頃の自分にとって大切な言葉だったのは間違いない。

あの時にきちんと陰の努力を見てくれている人がいるという事実があったから腐らずにいられたのだ。
だからこそ、今度は私が「陰の努力を見てくれる大人」として子ども達にそれを伝えられる存在でいようとしたのかもしれない。

人間不信になってから、何処か冷めた部分や一歩引いた部分は持ちながら生きてきた私だったが、この経験でようやく、もう少し人のことを信じてみてもいいのかもしれない、と再び思えるようになった。
もう30歳を目前にしようとしているところだが、大切な事にまた一つ立ち帰れたことに感謝している。

これからもいい意味で「誰かから見られている」という意識は持ちながら、見栄を張る事なくいつまでも生きたいと思う。

見ている人はきっと、見てくれているから。

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