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「感情の生き物」としての人の生態が、組織マネジメントにどのような「客観的」影響を与えるのか?

人は感情の生き物だ。

そういう話をよく聞きます。しかし、人は感情の生き物だから、どのようなメカニズム・プロセスで何をどう感じ、どのような行動をするのか、とつづくことはほとんどありません。だから、そうした考え方や行動が他の人間にどのような影響を与え、集団の「現実」がどう変わるのか、という話になることもありません。

「まあ、いろいろとむずかしいよね」で話が済む分には問題ありませんが、これがマネジメントとなれば、そんな風にフワッとしたままでいるわけにもいかない。

人は感情の生き物だから、何をどうとらえ、どのように行動するかは千差万別。

とはいえ、そうした千差万別な考え方や行動が生まれてくるメカニズムやプロセスを考えるうえで役に立つ視点もあります。それが米国の心理学者、レオン・フェスティンガーが提唱する「認知的不協和」という考え方です。

千差万別の感情はどのように生まれる?

認知的不協和というのは、自分が抱く信念(「こうなるはずだ」「こうでなきゃいけない」)と、目の前で起きている現実との間にくい違いが起きたときに、心の中に不快感やストレスが生じること。

こうした状況で「心の不協和音」が生じることについては、驚愕の真実というよりは、「まあ、そうだろうね」という感じだと思います。しかし、フェスティンガーが提唱する認知的不協和の理論のフォーカスはその先にあります。

つまり、そうした状況から生まれる不快感やストレスをどのようにして解消するのか? 何をどうとらえ、どのように行動することで、そうした不快感やストレスを和らげようとするのか? という点なんですね。

人は感情の動物だから、いろんな状況をどう受け止め、どのように行動するかは千差万別。でも、認知的不協和をどう解消するかという視点は、千差万別の考え方・行動を生み出すメカニズムやプロセスを考えるうえでの1つのヒントになるわけです。

自己正当化のメカニズムとプロセス

エリオット・アロンソンキャロル・タヴリスの「なぜあの人はあやまちを認めないのか ~ 言い訳と正当化の心理学」 は、認知的不協和(の解消行動)がどのような場面で、どのように生まれてくるのかをを分かりやすく(面白く)解説した本です。

この中に、スタンフォード大学で行われた自己正当化(「人は簡単に手に入ったものよりも、苦労や苦痛や努力、ときには嫌な思いもして獲得した「何か」のほうをありがたがる」)に関する実験の話が出てきます。

スタンフォード大学の学生を使って、セックスの心理学を論じるグループに入会してほしいと誘う。ただし、入会に先立って試験に合格する必要があると言う。学生の何人かは適当に、難関グループに挑戦させる。

この学生は試験官を前にして「チャタレー夫人の恋人」などのきわどくて性的に露骨な小説の一部を大声で朗読しなくてはならない(五〇年代のふつうの学生にとっては、これはかなりの苦痛を伴う行為だった)。入りやすいグループに割り当てられた学生は、辞書の中の性的な単語を声に出して読むだけでよかった。

入会を果たすと、どちらの学生にも同一の録音テープを聞かせた。同じく入会したての学生たちが話し合っているとおぼしき内容だが、実際は、最高に退屈でくだらない議論になるように前もって原稿を準備して録音したものだった。

テープでの討論参加者はつっかえつっかえ、ときにはずいぶん長く黙りこみながら、鶏の第二次性徴について、求愛期間中の羽毛の変化などをしゃべっている。ほかの学生たちはおどおど口をはさみ、互いの話をさえぎり、そのくせ発言は尻切れとんぼという始末だ。

テープを聞いたあと、学生はこの議論をいくつかの段階で評価する。容易に入会できた学生は、議論をあるがままに、つまり愚劣で無価値だと考え、参加メンバーも魅力がなくて退屈だと正しく評価した。

テープの男子学生は言いよどみながら、ある希少種の鶏の求愛行為についての必読文献をまだ読んでいないと認めており、入会が楽だった学生たちはこの人物に不快感をあらわした。なんという無責任。基礎的な資料も読んでいないなんて論外。あいつのせいで会のレベルが下がる。あんな人間のいるところで誰がいっしょにやっていこうと思ったりするものか、というのである。

しかし、辛い試験を経て入会した学生は、テープの議論は興味深く刺激的で、参加メンバーは魅力的で聡明だと評価した。あの無責任で愚かな学生のことも許していた。あの率直さはすがすがしいね。あんな正直者と仲間になりたくない人間なっているだろうか、だそうだ。

同じテープを聴いたとは思えなかった。

ここに描かれているのは、「大きな苦痛や恥ずかしい思いを乗り越えて手にした会のメンバーシップには価値があるはずだ」という信念と、「愚劣で無価値」な人間でも易々と入会できるという現実が大きく食い違い、心に不協和音が生まれたときに、これを解消するためのメカニズムとプロセスです。

あれだけ苦労して入会したのだから、この会のメンバーは優秀でなければならないという信念をそのままの形で維持するために、テープに録音された、客観的にみれば「愚劣で無価値」でしかない議論を「興味深く刺激的」なものだととらえ、討議に参加したメンバーについても「あの率直さはすがすがしい」と評価する。

そうすることで、自分の信念と客観的な現実との間に折り合いをつけて、心の不協和音をなくそうしているんですね。

「人は感情の動物だから、何かと面倒くさいよね」

話がそれで済めばいいのですが、組織マネジメントの現場でこうした状況が起きると、マネジャーにとっては本当に頭の痛い問題が生じることになります。

感情が生み出す組織マネジメントの「現実」

スタンフォード大学の実験はそこで終わるわけですが、この心理学研究会がそのまま存続した場合、先々どのような「組織マネジメント」上の問題が生まれてくるかについて想像してみましょう。

録音された討論を行った学生に対して、あるグループの学生は辛辣に批判するが、別のグループの学生は寛容な態度(あるいはむしろ賞賛する)態度を取る。

やがて、2つのグループどうしがイガミ合うことになり、間に立たされた新たなメンバーは居たたまれなくなり、脱会するメンバーが続出。

脱会するメンバーがあらわれるようになると、グループ間のイガミ合いはさらに激化する。メンバーどうしの関係性が最悪になり、研究会が崩壊の危機に立たされる。

みたいな状況が生まれても不思議ではありませんよね。

認知的不協和をどのように解消するかは個人の内面で完結するメカニズムでありプロセスです。しかし、そこから生まれる行動が他のメンバーにどう影響し、そこから集団の関係性がどのように変化するかを考えてみると、「客観的な」現実も、それをメンバーが主観的にどう受け止め、他のメンバーとどう関わり合うかによって、「客観的な」現実そのものが変化することを示しています。

つまり、「感情の生き物」としての人の考え方や行動のあり方が、組織マネジメント上の「客観的な」問題を引き起こす可能性がある、ということです。

スタンフォード大学の実験に描かれている(認知的不協和を解消するための)自己正当化のメカニズムとプロセスは、たとえばこんな組織マネジメント上の問題を引き起こすことがあります。

女にこの仕事ができるわけがない」という固い信念を抱いた男性がいる。しかし、ある女性が楽々とその仕事をこなしたという現実に直面する。するとその男性は、「単にラッキーだったんじゃないの?」「誰か(男性)に手伝ってもらったんじゃないのか?」「じつはこの仕事、それほどむずかしくはなかったのだ!」みたいに考えて、なかなか仕事のエンパワーメントが進まない、といった状況です。

そうした視点から、自分が働く組織や職場に同様の状況が生まれることはないかを考えてみてください。

  • メンバーが目の前の現実をどう受け止め、関わり合うかによって、「客観的な」組織の現実が変化するような状況とはどのようなものなのか?

  • そのとき、メンバーは何をどのように受け止めているのか?(それによって、何にどのようなツジツマを合わせようとしているのか?)

  • それがメンバー間の関係性にどのような影響を与えることになるのか?

  • その結果、どのような組織マネジメント上の問題が起きるのか?

  • こうした状況を変えるためには、何にどう働きかける必要があるのか?

こうした方向から組織の現実をとらえ直すことによって、「人は感情の生き物だから、何をどうとらえ、どのように行動するかは千差万別」では済ませられない組織マネジメント上の問題について

  • それがどのようなメカニズム・プロセスによって生まれてきているのか?

  • これを解決するためには何が必要なのか?

を考えるうえでのヒントが得られるのではないかと思います。

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