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立川談春が語る「質の良い努力」と「無駄な努力」をつなぐのは、「仮説を立てる力」=「探求する力」だと思う

2022年1月30日に放送されたテレビ番組、「日曜日の初耳学」で、林修と落語家・立川談春の対談をやっていた。いろいろと面白いことが話されていたけど、とくに印象に残っているのは努力についての話。

談春いわく、結果を残している人には、その人にとって「質の良い努力」をしている人が多い。でも、自分にとって「質の良い努力」を見つけるためには、「無駄な努力」をしなければならない。

なんだか矛盾しているようにも思える言葉だけど、自分なりにしっかりと仮説を立てたうえで行動することによって、無駄な努力を無駄なままに終わらせるのではなく、だんだんと自分にとって質の良い努力を見きわめる(探求する)ことができる。

そういうことを言ってるんだろうなと思った。

「質の良い努力」と「無駄な努力」

コロナ禍もあって、いろいろとうまくいっていない人も多いなかで、どうやったら「手応えのある生き方」をすることができるか?

そう尋ねられた立川談春は、「誰だって努力はしている」と語り、こうつづけた。

(でも、世間的に「成功している」ように思われている人はみな)自分にとって質の良い努力をしています。

じゃあ、それはどうやってそれを探すんだ?

無駄な努力をしてください。100個くらい見つけたら、1個くらい手応えあるでしょう。

それからキザですけど、無駄な努力をして足掻いているときの方が楽しいですよ。

もちろんこれは、無駄な努力をすれば、自動的に質の良い努力が見つかるというわけではない。だとしたら、無駄な努力をすることで、質の良い努力を見つけられるようになるためには、何が必要なのか?

そこで大事になるのは、無駄な努力をするまえに、しっかりと仮説を立てることだと思う。

職場での取り組みを振りかえる研修で思ったこと

そこで「仮説を立てる力」のことを思い浮かべたのは、この対談のちょうど前日に行った研修で、あらためて「仮説を立てる力」の大切さを実感したから。

その研修は、数ヶ月前に実施した研修内容を念頭に置き、各受講者が職場で実践したさまざまな取り組みを振りかえるものだった。それぞれの受講者が、職場の問題をどうとらえ、どんな取り組みを行い、その結果、どうなったのかについて発表し、他のメンバーとディスカッションすることで、さらにこれからの取り組みに関するヒントを得るのが狙い。

取り組みについての発表を聞きながら思ったのは、「とりあえずこういうことをやってみようか」と行動に踏み出す前に、どれだけしっかりと考えるかが、その後の取り組みの深みを大きく左右するということ。

「これやってみるか」の前に、そもそもいま状況はどういうことになっていて、問題の本質は何なのか? 問題を解決するために、何をどうすればいいのか? そうすれば、いまとは何がどう変わるのか?

そんな具合に、さまざまな方向からの問いに沿って、いろんな仮説を立て、そのうえで行動に踏み出した人は、たとえ想定した結果が出なかったとしても、なぜ結果が出なかったのかを、当初の仮説にさかのぼって振りかえることができる。

仮説が間違っていたとすれば、何が間違っていたのか? 仮説そのものではなく、その前提条件にヌケが見落としがあったとしたら、それは何なのか? そういうことを考えながら、もう一度やってみるとすれば、こんどは何に気をつける必要があるのか?

想定した通りの結果が出なかったという意味では、その取り組みは「無駄な努力」だということになる。でも、取り組みの前にしっかりと仮説を立てることができていれば、その「無駄」を無駄にしないための方法を考えることができる。

こうしたことの繰り返しが、自分にとっての「質の良い努力」へと導いてくれるのだと思う。

「足掻く」ことは「探求する」こと!?

「こうすればいいんじゃないか」と思ってやってみる。しかし思った通りの結果が生まれない。「何が間違っていたんだ? こんどはどうすればいいんだ?」と考えて、もう一度チャレンジする。

これでうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。

で、また最初にもどっていろいろと考えて、さらにチャレンジしてみて... というプロセスは、たしかに「足掻いている」という状態になるだろう。

でも、それは同時に「学びを深める」プロセスであり、「探求する」プロセスだととらえることもできる。

今井むつみ「学びとは何か」に書かれているように、いま教育現場でさかんに叫ばれている、「主体的な学び」「自ら学ぶ力」「探求力」って、ようするに母国語を学ぶときのように、「文法や語彙を親や戦線に直接教えてもらうことはできない」状況で、「耳に入ってくる一つひとつのことばの意味を自分で推測し、ことばを繋いで文を組み立てる規則(つまり、文法)を自分で見つけ出す」力のこと。

熟達者は何かをするのに素早く、的確な判断や行動をすることができる。最初はおぼつかなかったことが、意識的に注意を向けなくてもスムーズに素早く正確にできたら、それは立派な形だ

しかし、熟達の過程はそこで終わりではない。

あることが手早く正確に、楽にできるようになるというレベルの熟達の先には、他の人には真似ができない達人のレベルの熟達がある。達人の域に達したと誰もが認める人でも、学びに終わりはない。

達人になっても―あるいは達人だからこそ―さらに学びつづける。その過程で誰にも真似できない独自のスタイルを創り出す。

自分なりに仮説を立てたうえで行動し、振りかえり、再チャレンジすることが、「最初はおぼつかなかったことが、意識的に注意を向けなくてもスムーズに素早く正確に」できるようになる。

さらにその先には、「誰にも真似できない独自のスタイル」、つまり、その人にとって「質の良い努力」のカタチを見つけることができる。

だから、「無駄な努力をして足掻いているとき」というのは、学びを深め、探求を推し進めているときでもある。そもそも「自分は何を目的にして学びたいのかを考え、その目的のために最もよい方法は何かを考え、それを実践しつづける」ということをやっているはず。

そうした試行錯誤の中から、自分にとって「質の良い努力」のカタチを浮かびあがらせる力。それが「探求する力」なのだとすれば、「無駄な努力をして足掻いているとき」とは、探求を通じて、自分独自の学びのスタイルを見つけだしているときでもある。そこには苦しさだけでなく、楽しさもあるはずだ。

自分にとって質の良い努力を見つけるために、無駄な努力をしてください。

立川談春のことばは、そういうことを伝えているように思えた。

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