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是枝裕和監督の「越境学習」
2022年6月29日に放送されたNHK「クローズアップ現代」が面白かった。
韓国で名優ソン・ガンホ主演の映画「ベイビー・ブローカー」を撮った是枝裕和監督への密着とインタビュー。
単身で韓国に乗り込み、半年にわたって慣れない環境(自分以外は「ほぼ韓国人の俳優とスタッフ」)での撮影を行った是枝監督。いろいろと勝手がちがってさぞや大変だったろうなと思っていたら、だからこそ得られたこともあるらしい。
言葉の通じないスタッフ、慣れ親しんだものと異なる環境。
そうした現場に身を置くことで、是枝さんは自分の中に「ある変化」が起きたと言います。
それは、言葉ではない部分に目を向けることから生まれた変化。
何を話しているのか分からない韓国の役者に目を向けるうちに、言葉以外の部分にしっかりと目を向け、そこに生まれている意味をたしかに感じ取れるようになった。
だから、帰国して日本の現場で仕事をしていても、こんどはそれまで「見過ごしてきたことが見えるようになった」と是枝監督は語る。
その結果、現場に目を向けたときの「解像度」が上がった。
慣れ親しんだ心地よい場所をあえて離れて、境界を超えた先でしか知りえない、感じえない経験をすることで、単に新たな知識や経験を得るだけではなく、それまでの「勝手知ったる」知識や経験に新しい光を当てること。
それが越境学習だ。
越境学習は、自分にとってのホームの領域を離れアウェイな場に身を置くことを通じて得られる新たな学びのこと。
とはいえ、それはいいことばかりではなくて、新たな学びを得るまでのプロセスでは、ものすごくイライラしたり、激昂したり、宙ぶらりんの不安定感にさいなまれたり、なんてことも起きる。
そうした大変さを乗り越えた先に、新しい学びが待っている。というか、そうした大変さを新しい学びに変える心がまえが重要になってくる。
そこいらの話を、「越境学習入門」の著者、立教大学の石山恒貴教授はこんな風に語っている。
私が考える越境学習というのは、Aという状況と、Bという状況を常に行ったり来たりすることで、Aという価値観と、Bという価値観が同時に自分の中に入っていて、不安定にさえなるような状態ではないかと思っているのです。
違った価値観が同時に自分の中に入ってきて、不安定にさえなるような状態。
企業の海外駐在員には、このパターンの越境学習を経験している人が多い(自分もそうだった)。
新しい環境の何もかもが楽しい「ハネムーン期間」を過ぎると、だんだん現地のいろんなことに違和感をおぼえて、イラついたりゲンナリしたりするようになる。
境界の向こう側の新たな価値観を受け入れられず、違和感や反発を感じる期間だ。
で、こうした状況にだんだんと慣れてきて、そっちの方が「当たり前」に思えてくると、こんどは、それまでホームだった日本の価値観や行動パターンに対する違和感が生まれてきて、何かと日本の本社側のやり方がカンにさわるようになってくる時期。
この頃、駐在員を送り出した日本側では、「ミイラ取りがミイラになったね」とか、「現地化したぞ」みたいなことがささやかれていたりする。
その段階を通り抜けた先に、日本側の価値観、現地の価値観の双方を等距離にながめることができる時期がやってくる。
2つの異なる価値観がしっかりと自分の中で安定し、その結果、視野が広がり、行動の選択肢(とくにさまざまなバックグランドの人との関わり合い方のバリエーション)が増える。
もちろん、このプロセスのまっただ中にいるときは、些細なことすらできない自分に幻滅するとか、ひらすらユーウツになるとか、何かにつけイラつくとか、そりゃまあいろんなことが起きる。だから、四方八方に悪態をつく日々がつづいて、最終的に日本も赴任先の国も大嫌いになる、なんて可能性もある。
そこで大事になるのが心がまえ。
是枝監督が、あえて慣れない韓国で映画を撮ろうと思った背景には、いまとても元気がある韓国の映画業界との関係をしっかり構築していこうという意図もあったと思う。
でも、そこには同時に、つねに新たな学びを求める姿勢もあったはず(そうでなければいろんな形であらわれてくるシンドさをくぐり抜ける気力が生まれてこないと思う)。
もちろん日本に慣れ親しんだチームがあって、そこで作っていくこともとても大切ですけども、それだけやってるとなかなか自分から新しいものが出てこないなという実感もあるので…
よくも悪くも慣れ親しんでいるチームの中だと、あえて言語化しないでも済んでしまう事ってあるじゃないですか。
「学び」というと、アタマの中に生まれるもののように思えるけど、いまの自分にない新たなアイデアや視点を生み出したり、いま自分にできないことができるようになるためには、いま・ここにあるシンドさの先にある「何か」を見すえる気力と体力が大事になるんだろうなと思った。