「指はどこからはじまる?」の仕事論
ずいぶん長いこと放ったらかしにしていたので久しぶりに…
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先日、奥さんがこんなことを尋ねてきた。
「指はどこからはじまると思う?」
答えは、「手首から先ぜんぶ」
何十年ぶりにちゃんとピアノの練習をしようと心に決めた奥さん。しかしさすがに指が動かないし広がらない。というわけで、なんとかコツをつかもうと、ブログを読んだり、YouTubeを見たりしていたら、「手首から先ぜんぶが指なのだ」と書かれたページを発見したらしい。
そのあたりが分かっていないと、指を広げようとして手のひらの先の部分に意識を向けて、延ばそう、広げようとしてしまう。
だから延びないし、広がらない。
指というのは手首から先の、骨が枝分かれした部分の全体なのだから、根元の部分から動かす意識を持たないと、いちばん自然な動きにはならない。だから延びないし広がらない。余計な力がかかってしまう。
「そう思ってやったら本当に広がるよ」
奥さんはそう高らかに宣言した。
延びない、広がらない、ではない。目の向けどころが違うから、延びないように、広がらないように指を動かしている。そして、それに気づいていない。
これ、仕事への向き合い方についても同じことがいえると思う。
「なかなか仕事がうまくいかない」とアタマをかかえているとき、じつは目の向けどころがズレていて、わざわざうまくいかないような動きを実現しようと一生懸命に力を使っているのかもしれない。
そのあたりついて、「成長の限界」を乗り越えるためには何が必要なのかという話の中で、ピーター・センゲがこんなことを言っている。
つまり、目の向けどころが違っているよ、という話だ。
「システムの挙動」とか、「制約要因の特定」とか、いろいろむずかしい言葉が並んでいるけど、ようするに、手のひらから先を延ばそう、広げようとするのではなく、手首から先、手のひらの根元の部分から動かそうとする意識の変革が起きないと、うまくいくものもうまくいかなくなるよ、ということだ。
これをざっくりとまとめると、「何事も気の持ちよう」みたいな話になる。
もちろんこれは、仕事を依頼する側が相手に対して口にすると、ブラックなことやり放題な状況を生み出してしまいかねないけど、仕事に向き合う際に自分自身に問いかける分には、とても役に立つ。
「気の持ちよう」、つまり自分自身の目の向け方が原因で、うまくいくはずのことがうまく廻らない状態が生まれているとすれば、それはどんな意識から生まれたどのような状態なのか(制約要因の特定)を考えることで、事態が打開できるかもしれない。
「限界は自分が決めている」なんて言葉もよく耳にする。これも同じ。
「限界なんかない!」と思ったら限界はなくなる。そういう簡単な話ではなくて、自分の中に「限界(のようなもの)」を生み出している原因があるとすれば、それはどのような意識が生み出しているのかを振りかえる(制約要因を特定する)ことで、自分が生み出した限界を乗り越えることができるかもしれない。
「気の持ちよう」で状況を変える、「自分が決めている限界」を乗り越えるために大事なのは、自分がどこに「目を向けていないか」に気づくこと。そして、そのことが目の前の状況にどのような影響を与えているかに気づくこと。
そりゃそうだけど、これ、なかなか1人でできることではない。
だから対話と内省がとても重要になるということを、「内省的な開放性」という言葉を使ってセンゲさんはこう説明している。
「気の持ちよう」「自分が決める限界」といった話は、なにかと自己責任方面に向かう傾向があるけど、そうした目の向けどころを変えるためには、他者とのつながりと対話、その結果として内省を深めることがとても大事になるのだ。
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奥さんのいないスキを狙って、ときどき自分でもピアノを「弾いて」いる。
とはいえ、何十年ぶりどころか、ほぼ初めてのことなので、「ドレミファソラシド」さえスンナリいかないし、「ドシラソファミレド」になると、さらにぎこちない。両手でやろうとすると、ぜんぜん思った通りに左右の指が動かない。
これも「自分が決めた限界」のはず。
なので、これを乗り越えるべく、奥さんとの対話を通じて内省を深め、目の向けどころを変えることはできないかと考えることもある。けど、さすがにこのレベルでは「そりゃ、ひたすら練習するしかないでしょ」という答えが返ってくることが目に見えているから頭が痛い。