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パッと分からないことはぜんぶ捨てる 〜「儀式」に近づくコトバと情報化社会の身のこなし

社会の情報化が進展しているから、情報収集が大事。

みたいなことは昔からいろんなところで叫ばれているけど、要らない情報をどう捨てればいいか、みたいなことはあまり語られない。

考えてみれば、これは不思議なことだ。

社会の情報化が進展すると、要らない情報もたくさんつくられる。だから、集めることも大事だけど、要らないものはドシドシ捨てないと、すぐにパンパンになってしまうはずだから。

というわけで、「パッと分からないことはぜんぶ忘れる」みたいなシンプルなルールで日々増えていく情報の多くをバサッと捨てる、みたいな心がまえでいいんじゃないのか?

よく「分からない」けど、「ありがたい」言葉

てなことを考えたのは、いま流行のWeb3(で使われる専門用語の意味)について書かれた記事を読んだから。

この記事の主張はとてもシンプル。

Web3の未来について語るとき、専門用語ばかりに気を取られ、実践的な議論が置き去りにされがち

じゃあ、なんで「専門用語ばかりに気を取られる」ことになるのか?

参考になるのが、Web3企業を顧客とするマーケティングエージェンシーのアマンダ・カサット氏の言葉。

消費者もすぐには専門用語を必要としない。この技術が何に使われるかを理解していればそれでいい

これ、逆にいえば、その技術が結局何に使われるのかが分からなくても、なんとなくそうした、よく意味が「分からない」専門用語を「ありがたいもの」として受け止める雰囲気がつくられているということ。

そういうわけで、よく「分からない」けど、「ありがたい」コトバにばかり気を取られることになる。コトバの意味はなんだがよく分からない。しかしそのコトバを使う行動や、コトバが使われる文脈が「儀式」に近づくのだ。

ある行動が、その行動以外の意味をあらわすところから「儀式」が生まれる。そういう話を書いたけど、これ、会議のような行動にかぎった話じゃなくて、モノやコトバ全般に当てはまるということだ。

専門用語の「分からなさ」が意味すること

目に見えるモノであれ、耳に聞こえるコトバであれ、何かがそれ以外の意味をあらわすのはよくあること。

2014年の香港では、(警察の催涙弾を防御する)雨傘が「中国共産党への抵抗」を意味するようになったし、2022年の米国では、(1973年以前に妊娠中絶に使われたことがある)針金のハンガーが「中絶の権利」を意味するようになった。

こんな風に、モノやコトバがそれ自体とは異なる意味をあらわす働きは、シンボル作用とか象徴作用とかいわれる。

では、どういう状況のもとで、そうした作用が「儀式」の側に近づくのか?

それは、モノやコトバの意味の「分からなさ」が、「何かしらの深い意味」をあらわしていると考えられるときだ。とくに専門用語なんかは「儀式」側に近づくことが多いように思う。

「儀式」パワーは何でできている?

コトバが「儀式」的なパワーを持つというと、とても大げさなことのようにきこえるけど、これ、とても日常的に起きていることだ。

たとえば解熱鎮痛剤の宣伝で見かける「イブプロフェン配合」というコトバの「イブプロフェン」という音。

「イブプロフェン」がいったい何なのか、それがどう働いて発熱や痛みが緩和されるのかを、しっかりと理解している人は少ない。でも、なんとなく「ありがたい何かが入っているんだろう」と思ってる。

中世ヨーロッパの教会でラテン語の聖書の朗読を聞いた人も、よく「分からない」コトバの意味をそんな風に聞いていたんだろうし、「本当のところ、いろんなことには実体がない。どんなことにも実体がないということが、あらゆるものごとの実体なのだ」みたいな説明の言葉を聞くよりも、「色即是空 空即是色」という音の方が、その向こうに「深遠な何か」がありそうに響く。

かくして、モノやコトバの意味の「分からなさ」が、お金をかけてつくられるテレビコマーシャルの映像(&音声)や、教会・お寺のような舞台セットの中に置かれると、「ありがたい何か」の意味を帯びることになる。

コトバに「儀式」的なパワーがやどるわけだ。

「イブプロフェン的な何か」ボックスに放り込む

いま流行のWeb3の議論でも、こうした「儀式」化が進行している。この記事が警鐘を鳴らしているのは、そうした状況だ。

Web3なのか、Web2なのか、メタバースなのかといった話ばかりしている」。そう指摘するのは、NFTドメインやデジタルアイデンティティツールを提供するアンストッパブルドメインズ(Unstoppable Domains)でシニアバイスプレジデント兼チャネル責任者を務めるサンディ・カーター氏だ。「もっと顧客のニーズに焦点を当てるべきだ」

Web3戦略を策定するよりも、顧客のために何をどう変えたいのかを理解することに時間を割くべきだとカーター氏は話す。「理想的な世界では、Web3とかメタバースとか、そういうバズワードは使わない。顧客の真のニーズに応えるだけだ」

この背景にあるのは、「Web3の信奉者のなかには、NFTからブロックチェーン、各種のメタバースに至るまで、Web3にまつわる何もかもに対応することが急務だと説く人々がいる」こと。

何かを信奉する人はコトバを「儀式」寄りに使いたがる。おそらく、そういう人たちにとっては、コトバに「儀式」的なパワーをやどらせることから何かしらのメリットが得られるのだろう。

とはいえ、信奉者ではない普通の消費者は、そうした「儀式」パワーをチャージされた専門用語を必要としていない。つまり、「意味がパッと分からない専門用語(とくに信奉者が語る「儀式」パワー満タンのコトバ)は、どれだけ「深い意味」がありそうに響いたとしても、とりあえずはぜんぶ忘れていい」ということだ。

情報化社会というのは、「儀式」化・「象徴」化の増幅装置としても働くので、(とりあえず)要らないもの・分からないものはぜんぶ捨てる、くらいの態度がちょうどいいんじゃないかと思う。

さすがに「ぜんぶ捨てる」のはちょっと不安。という場合は、このジャンルに属するコトバはすべて「イブプロフェン的な何か」のカテゴリーに放り込んでおけばいいのだ。

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