ウクライナ ゼレンスキー大統領の「エモくないリーダーシップ」とポジティブであることの意味
ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会に向けてオンラインで行った演説を聞いた。「おっ!」と思える一節が満載なのかと思ったら、同時通訳で聞いたせいなのかもしれないけど、とても無難にまとめた感じに思えた(いろいろ大人の事情とかあるのだろうか)。
とはいえ、静かな力強さと抑えた怒りはしっかりと感じられるものだった。
ゼレンスキー大統領の演説やSNSを使ったメディア戦略については、これまでいろんなところで絶賛の声が上がっている。
言葉や相手に応じた柔軟なテーマ・トピックの選び方、語りかけるときの口調に表情、それから着る服の選び方。さらには「ウクライナのオードリー・タン」とも称される副首相兼デジタル担当相(若干31歳!)のミハイロ・フョードロフ氏のネットを活用したメディア戦略まで。
でも、この大統領のメッセージを聞いてもっとく強く印象に残ったのは、議会での演説ではなく、SNSを通じて国民に語りかけるときのたたずまいだった。
なぜ印象に残ったのかというと、ぜんぜん「エモくない」ように感じられたから。たとえば侵攻翌日の2月25日にフェイスブックに投稿されたウクライナ国民に向けたメッセージ。
BBC News Channelは、これを「国民に連帯と抵抗を呼び掛ける」メッセージだと伝えているけど、連帯と抵抗に向けて国民を「鼓舞する」(鼓を打ち、舞いをまってふるいたたせる)というイメージとは正反対の、とても落ち着いた口調と表情(大統領以外はみんな無表情だし)に驚いた。
そんなゼレンスキー大統領の「エモくないリーダーシップ」が、どのように国民を鼓舞することになるのかについてぼんやりと考えているうちに、そのスタイルの核心がポジティブであることと深く関係しているような気がしてきた。
呼びかけのルールが違う!?
2月25日のメッセージは、侵攻直後のまだ戦況の全容がはっきりしていない段階で、とりあえず「大丈夫です。安心してください」というメッセージを伝えるための落ち着いた口調だったのかもしれないと思った。
でも、侵攻から16日、今後さらに戦闘が激しくなるという見通しや、メリトポリの市長がロシア側に誘拐されたことを伝えるメッセージでも、落ち着いた感じはまったく変わらない。
こうなると、語り口調が「エモくない」というよりも、むしろ積極的にエモーションを排除しているように感じられてくる。これがとても不思議に思えた。
日本で同じような状況が生まれたら、リーダーがまず口にするのは、語りかける相手の感情への共感の言葉だと思うから。
たとえば、2020年にはじまったコロナ禍で、最初の緊急事態宣言が発令された直後に帝国ホテル社長の定保英弥さんから従業員全員に向けたメッセージ。
ここでメッセージは従業員が抱く不安という感情に向けられている。まずはそこに共感を示したうえで、「乗り越えましょう」という呼びかけがつづく。
ゼレンスキー大統領から国民へのメッセージは、そうした「呼びかけの文法」とはずいぶん違ったルールで組み立てられているように思える。
「感情を排する」≠「感情が存在しない」
では、ゼレンスキー大統領の「呼びかけの文法」を形づくる「エモくない」という特徴にはどんな意味があるのか?
この疑問へのヒントを与えてくれたのは、DW(Deutsche Welle)というドイツの放送局の討論番組にコメンテーターとして出演していたポーランド人社会学者、カロリナ・ウィグラ(Karolina Wigura)さんの発言。
ロシアによるウクライナ侵攻のように、今後の先行きがまったく見えなくなるような事態が起きた場合、「恐れという感情に相談を持ちかけても、いいアドバイスは得られない(Fear is not a good adviser)」と語っていた。
ただでさえ、恐れや焦り、怒りに不安といったネガティブな感情に飲み込まれそうになる状況だからこそ、そうした感情を排するという明確な意志(= ポジティブな感情)が必要になるということだと思う。
ニュース番組にリモート出演していたキエフ在住のアレクセイさんが語っていたのは、まさしくそうしたポジティブな感情という拠りどころが不可欠な状況だ。
終わりの見えない戦いのただ中にあっては、「恐怖」をはじめとする、すぐに飲み込まれそうなさまざまなネガティブ感情との戦いを強いられる。持ちこたえるためには、闘う「意志」が必要だ。
だから、感情を排するというゼレンスキー大統領の呼びかけの特徴は、何かがそこに存在していないということではなく、ものすごい力で押し寄せてくる感情を押しのける意志や行動をあらわしていることになる。
そんな風に考えてみると、ゼレンスキー大統領の「エモくないリーダーシップ」の核心は、意志というポジティブな感情を拠りどころにして、恐怖というネガティブ感情と闘いつづける国民にしっかりと寄り添う姿勢を体現したものだということになるだろう。
楽観主義は何でできている?
コーチングでは、グラスにワインが「半分入っている」とみるか、「半分空だ」とみるかは、見る側の気持ち次第だ、みたいなことがいわれる。
しかし、これは単に「同じことでも正反対に解釈できるよ」ということではない。
「半分空だ」と思えてしまうのは、(過去からこれまでの経緯に目を向けて)「いまだに半分しか埋まっていないから、これからも埋まらないだろう」という気分に押し流され、これからの行動にはつながらない感情に支配されている状態。
これに対して、「半分入っている」とみる視点は、半分まで入っているので、(気分というネガティブな感情に取り込まれることなく)ひきつづき行動をつづけていけば、最終的にはぜんぶを埋めることができるはずだ(だからそのように行動しよう)という意志に支えられた状態。
「半分入っている」と「半分空だ」を分けるのは、すぐに切り替えられる物の見方ではなく、目の前の現実に立ち向かうにあたって何を拠りどころにするのか、そして、今後の成り行きとこれからの自分の行動をどれだけ深く結びつけて考えることができるか、という違いだと思う。
そうした意識の違いは、ものすごく大きな違いを生み出すはず。とくにいまのウクライナのようにまったく先行きが見通せない状況にあっては。
19世紀フランスの哲学者のアランが語っているように、楽観主義は何もしないで気楽にかまえることではなく、どれだけたいへんな状態にあっても、気分というネガティブな感情に押し流されることなく、状況をすこしでも変えるための行動つづける意志に支えられて行動をつづけることだ。
ゼレンスキー大統領の「呼びかけの文法」は、「お気持ちお察しします」という共感の表明からはじまる日本の作法とはずいぶんことなっているようにみえるけど、過酷な状況のただ中にあって、それでもポジティブであろうと懸命に努力する国民の意志に寄り添う姿勢をあらわしているのだと思う。
前線に立ってウクライナを守る人たち、そして前線から離れたところでネガティブな感情と果敢に闘っている人たち。そうした人たちの強固な意志と行動の先に栄光がもたらされることを願っている。