春めく陽射しの中、精神的バンジージャンプの一歩を踏み出した ~ 音声コンテンツ収録@日比谷公園
2024年3月14日は、「こんな日に散歩しないのはどうかしてる」と思うくらいに春の訪れを感じさせる、うららかに晴れた1日だった。
そしてこの日は、ナカミチさんのムチャ振りでアッという間に音声コンテンツをつくることが決まり、ほどなく収録日が決まり、収録にあたっては「日比谷公園あたりを歩きながら、好き勝手なことを言い散らかす感じでいこう!」と決まった日でもある。
まさに狙い通りの晴れ間。
「ほーらね、私は晴れ男ですから」といったら、ココロさんから「私も晴れ女です」との言葉(二人とも「自分の晴れパワーのほうが強い」と思っている)。
放談のお相手は、「異文化マネジメント」や「組織行動とリーダーシップ」といったクラスを担当されている、グロービスの同僚の田尻史明さん。
ファカルティの集まりでお目にかかり、「リベラルアーツのこんなことをやりたいと思ってるんですよ」という話をしたら、「おー、それは面白そうですね」となり、その後、「マネジメントに役立てるリベラルアーツ」クラスの準備セッションにご参加いただいたご縁で(というか、ココロさんの「この二人でやるぞ!」の鶴の一声で)今回の話が決まった。
グロービス「学び放題」の音声コンテンツのタイトルは「リベラルアーツ処方箋」
(哲学に歴史、文学にアートに心理学や社会学といった)リベラルアーツの考え方を通して、マネジメントにおける理屈では解決できないモヤモヤや、言葉にできない感情に向き合うコンテンツだ。
まずは銀座で待合せて、(柄本明が営む探偵事務所がありそうなビルに入っている)南インド料理レストランで美味しい料理に舌鼓。
ここでは、どんな話をどう進めていくかについての綿密な打合せ… みたいなことをするわけもなく(なにしろムチャ振りなんだから)、たとえばこんな調子の話をした。
この日の本題とは縁もゆかりもない話だけど、じつはこういうのが大事。
田尻さんも私も、そぞろ歩きながら音声コンテンツを収録するのははじめての経験なのだから、[解凍]→[変化]→[再凍結]の流れで進む組織変革の3段階でいえば、ここは最初の[解凍]にあたる。
ここでしっかり場がゆるんでいなければ、そのつぎの[変化]にスムーズに移行できないのだ。
(場の空気はゆるんだけど、身の潔白が完全には晴れていない気がする)
日比谷公園に移動。
心字池から花壇のある広場を抜け、松本楼から雲形池を歩き、野外音楽堂の脇のカフェで下打合せ。
写真を見ると、どんな話をどう進めていくかについて綿密な打合せをやっているように感じられるけど、ナカミチさんからのじっさいの指示は、たとえば「テーブルセッティングはこんな感じ。あとの料理はおまかせで」くらいにザックリとしたもの。
ナカミチさんは「型にはめるのはよくない。演出は引き算である」という美学の持ち主なのだ。
そうはいっても、こちらとしては「これってようするに丸投げではないか! しかも丸ごと投げてるものがかなりデカイぞ!」と思い、そしてかなりの心理的な負担がのしかかってくるのを感じる。
ところが面白いことに、いざその状況に投げ込まれ、「こんなんでいいのか?」とかやっているうちに、なんとなく「こんな感じでいいんだろうな」と思えるようになり、気がついたらそのプロセスが楽しく感じられてくる。
で、終わってみれば、「文系管理職なのに 画期的な業務アプリを シュシュっと作れちゃう オレ」的な変貌を遂げたような気になっている。
(ひょっとしてここまでが引き算の演出なのか? ぜったい違うと思うけど)
というわけで、ムチャ振りにはじまり、その状況に投げ込まれ、アタフタしているうちに、なんとなくできるようになり、終わってみれば、それまでとはちょっと違った自分になったような気分が生まれるまでのプロセスを、ひそかに精神的バンジージャンプと呼んでいる。
はじめて動画コンテンツをつくったときは、かなりの落差をジャンプするような気がしたが、今回のジャンプでは、「あのときほどの落差ではないな」という気もした。
この感覚の変化は、組織変革の3段階でいうところの、[変化]→[再凍結]のプロセス。ムチャ振りに応えていつもと違うことをやるのが、ある種の「当たり前」に感じられるように(つまり、再び凍結された状態に)なってきたということだ。
(ナカミチさんの術中にはまってるみたいでイヤではあるけど)
というわけで、田尻さんとカフェを後にして、野音の脇を歩きながらテーブルセッティング的に言うべきこと(自己紹介とか、リベラルアーツとは何かとか)を言ったら、あとは出たところ勝負の本当の雑談。
これが本当に楽しい。
本筋を離れ、枝道に入った後、さらなる脇道を通っているかと思っていたら、いつの間にか最初の大通りに出てきているようなことが何度もあって、メンバーが好き勝手をやりつつ、しかしビジョンは共有している、みたいな感覚ってこういうことなんだよなと思った。
根っこの部分で方向性がそろっていれば、いったん話が分かれても、いつのまにか合流し、また分かれては重なり合って、みたいなプロセスがつづく。
今日みたいな陽射しのなかを、歩きながら話すというのもいい。
野音があって、噴水があって、花壇の美しい花々と、いろんな人が思い思いに過ごしている時間の脇を通り抜ける過程が、知らないうちにこちらの心にもいろんな影響を与えているような気がする。
(田尻さんの向こうに見えるカップルがさっきからものすごくベタついているのが気になって、「なかなか話に集中できんぞ」ということも)
「わー、楽しかった!」と2本取りの収録を終えたら、日本酒+そばで打ち上げ(精神的バンジージャンプの後は、クールダウンが必要なのだ)。
もちろん反省会とかするわけもなく、たとえば田尻さんの若いころのこんな話で盛り上がった。
中国からはじめて、そのまま陸づたいに旅して、共産圏を抜けて、最終的にはリスボンに到着した(「深夜特急」+「地球の歩き方」ジェネレーション!)。いまとは違って、どこに何があって、どんな状況で何が起こるかについての情報が事前に手に入らない時代だったので、道中ではいろんな経験をした。
それを聞いて、自分の学生のころを思い出した。
地上げ屋さんの黄金時代。住んでいた下宿が買い取られることになり、「えっ、こんなに?」というくらいにまとまった額の立ち退き料が手に入ったので、ロサンゼルス往復の格安チケット&デルタ航空の1ヶ月間国内線乗り放題チケット(そんなチケットがあったのだ)を手にアメリカを旅したときのこと。
そこに何があって、どんなことが起きるのか分からない状況に飛び込み、楽しかったり(ちょっと)危なかったりのモロモロにアタフタしているうちに、なんとなく勝手が分かるようになり、終わってみれば、それまでとはちょっと違った自分になった気になる。
これって精神的バンジージャンプのプロセスそのものじゃないか!
そして、田尻さんとの雑談で、いつしか本筋を離れ、枝道を抜けるうちに、ふたたび大通りに出て、さらに脇道に入り、もう一度もとに戻って、という行ったり来たりを繰りかえしていたときも、つねにこの原初的な体験の周囲をめぐっていたような気がする。
さらに、たとえば「VUCAの時代の環境変化にどう対応すべきか?」みたいな話をするとき(というか基本的にどんなことを話しているときで)も、無意識のうちにこのときの体験を念頭に置いているような気もしてきた。
文芸評論家の亀井勝一郎のことばに「作家は処女作に向かって成熟しながら永遠に回帰する」というのがあるけど、このときの体験が、自分にとってのそうした原初的な考え方や行動の仕方の基盤をつくっているんだろうなと思う。
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2024年3月14日は自分の誕生日でもあって、ここからはじまる新しい年を、春めく陽射しの中の精神的バンジージャンプではじめるという、とても幸先のいいスタートを切ることができてよかったなと思う。
そして、これまでは精神的バンジージャンプを決定づけるムチャ振りから、それが無事終了するまでは、(制作発表記者会見の大泉洋のように)つねに声を大にしてボヤいていたけど、これからはその先の「永遠への回帰」にポジティブな目を向けていこうと思った(たぶんムリだけど)。