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【週刊自己肯定感】「女性のためのエロス」其の一。代々木忠監督の本に映画に映像に癒されるわたしのインナーチャイルド、わたしはふつうの愛されたこどもだった、の巻。
みなさまおこんにちは、
自分責めの毎日からわたしダイスキがあたりまえな毎日を。
あなたのドーパミン、
心理カウンセラーのイチカ✳︎ドーパミントです。
ブログにお越しくださってありがとうございます。
代々木忠監督の、いままでの生涯をたどった映画を観た。
代々木忠監督は、我が国のアダルト映像文化を構築したパイオニアであり、
セックスとは人間にとって一体なんなのか、どんな効果があるのか、なぜこんなにも人のこころに影響があるのかを追求し続ける人であり、
ひととひととのつながりを思索し探索し発見し証明し続ける開拓者であり、伝達者である。
カウンセラー仲間が「わたしのバイブル」と代々木監督の著作を勧めてくれてその存在を知った。
その本「つながる」は、1ページ目から泣けてたまらなかった。
その本の中には、わたしがたくさんいたからだ。
愛されたくて、愛が欲しくて、特別扱いされたくて、唯一無二になりたくて、
誰かのいちばんになりたくて、
ほかの誰かのフリをしなくても愛されて可愛がられたいのに、
自分の本心を隠していい人のフリをするための嘘をつくことがとても上手になってしまって、
自分ではないほかの誰かにならなければ誰にも愛されないと頑なに信じて、
愛を探し求めて疲れ果てている女性たちの姿があった。
このブログを読んでくださっているみなさんが
「わたしもわたしもー」
ってうきうきしている姿が目に浮かぶようだ笑。
わたしとはちがう、そんな枷から外れて自分とまわりの人をあふれる愛で愛して抱きしめているかのような女性たちの姿も描かれていたので、
そんな人になりたい、どうしたらそうなれるの?という希望と光を持ちながら読み進めることができた、カウンセリングみたいな本だった。
そんなわけで、代々木監督のご著書にひとめぼれしてしまったわたしはアマプラに課金して映画を観ることにした。
ふだんはアマプラに課金などしないのに、どうしても観たかった。
この映画を観ているうちに、勝手に涙が流れてくるシーンが何度もあった。
潜在意識のなかでうろうろと所在なくさまよっていた感情が拾い上げてもらったのだろう。
みなさんもご存知のとおり、わたしたちの顕在意識は3%から8%、潜在意識は92%から97%といわれているよね。
顕在意識において置けないから潜在意識にひろってもらって、そのなかでうろうろしている感情はものすごく多い。
適切な時期にそれを認めてあげると、自動的に昇華されていく。
それは無意識に行われることも多い。
ひとつ、はっきりと意識したうえで
「ああ、なあんだ、わたしはふつうだったんだ」
と心底安心したことがらがあった。
それは、代々木監督が上京されて映像作品に深く関わるようになられるにつれ、
我が国のアダルトコンテンツの発展の歴史を語らざるを得なくなる、そのシーンである。
よみうり〜黄表紙〜新聞〜本・雑誌〜ラジオ〜ビデオテープ〜DVD〜ネットでダウンロード〜ネットでストリーミング、
我が国の画像・映像コンテンツの媒体はこんなふうに進化していったのは周知の事実だけれど、
その発展の主力コンテンツはいつの世もアダルトであったらしい。
春画、官能小説、裏本にビニ本、アダルトビデオ、VRビデオ。
1970年代の主流は「エロ本」「ビニ本」であった。
写真で見ず知らずの他人のはだかや性行為を見ることは画期的であったのか、
女性の下着姿や裸や性交などの写真を掲載した雑誌や書籍が一般男性に大流行したといい、
もちろん例外もおられるだろうが、1970年当時、大半の男性はエロ本やその類の本を所有していたという。
そのことをこの映画で「我が国のアダルトコンテンツの発展の歴史」として、
日本におけるトレンドのワンシーン、といった説明のされたことによって、
わたしは心底ほっとしたのだ。
わたしはちいさなころ(多分5歳くらい)、父の隠していたエロ本を見つけてはじっと見ていることが何度かあった。
その本の中では、はだかの女性がほほえみながら、股間になにかを突っ込んでいた。
当時のわたしには性的な知識も欲求もないから、おふろに入るか何かの儀式的なものを写真に撮ったのかな?くらいな意識しかない。
なにかたのしいことをしているんだなー、なんだろうなーと思っていると、
そこに母があられわて烈火の如く叱られた。
お不動さんみたいに背中に炎を背負って、目がぎらぎらしていて、声が甲高くなって、
「どうしてこんなことするの?!」
と、なんどもなんども問い詰めてくる。
なぜ怒った女というのは、相手を問い詰めるのだろう。
答えたらさらに怒るくせに、執拗に返答を求めるのだろう。
相手からの答えなんて求めてないのに、相手に答えさせようとするのはなぜなんだろう、わたしもだけれど。
なんだかもうびっくりしてこわくて声にならないままでいると、
「おとうさんもあんたもおかしい!ふつうじゃない!」
と吐き捨てるように言って、母は寝室からのしのしと去って行った。
その頃に「わたしは変な子」であり、「父は変わった人」という思い込みが生まれたのだろう。
わたしが変な子だから、ふつうの子じゃないから、母はこんなにも怒るのだ。
ごめんなさい、ふつうじゃなくてごめんなさい…
長年、こんな思い込みを持っていた。
何かにつけて問題が起こるたびにこの
「わたしはふつうじゃない」
を理由にして、自分は駄目な人間だからなにをしてもうまくいかないのだと決めつけた。
それが、なんだ、実に至ってふつうの家族だったんじゃないか。
わたしは映画のそのシーンを観て、声を出して笑ってしまった。
我が父の性癖がヘンなのではなく、至って真っ当な、ただのふつうのすけべなしょうもない愛すべき男性であるにすぎなかったし、
我が母もおそろしいオニババアでなどではなく、
たいせつな子供にはまっとうな子に育ってほしいと願い、
問題が起こるたびに母としての至らない自分を責める、ふつうの、一生懸命なかわいいおかあちゃんにすぎなかったし、
わたしもただしくふつうのこどもであり、世の大多数のこどもとおんなじように、家中をひっくり返しては探索して育ついきものにすぎなかった。
ああなんだ、わたしは変な子じゃなくて、ふつうの子だったんだ。
父も母も変な人じゃなくて、ふつうの親だったんだ。
なあんだ、よかったあ。
「ねえ、わたしの性的なトラウマがもしあるとしたらそれは、エロ本が原因だったみたいだよ」
我が恋人の、わたしよりひとまわり歳上の、チベットスナギツネにそっくりなTBSさんにその事情を説明すると、彼は笑って言った。
「そんなのあったなあ、みんな見てたなあ」
代々木忠監督の作品はわたしを癒してくれるとこころ惹かれたわたしは、
とある映像コンテンツを恋人と一緒に観てほしいとお願いする。
そのおはなしは来週の【週刊自己肯定感】にて。
今日もおつきあいくださってありがとうございました。
すてきな今日をお過ごしください。
イチカ、あなたのドーパミンより。
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