溜まって、追いやり、それは生活になったみたい。
わたしのスマートフォンには、いくつかのメモアプリが入っている。
ひとつはメインで使っているネタ帳代わりのもの。
ひとつはiPhoneにはじめから入っていたもの。ちなみにこれも元・ネタ帳であった。
ひとつは色々書きすぎて遡りきれなくなったもの。ちなみにこれも元・ネタ帳であった。
ひとつはフォルダ分けを頑張ったけど使いこなせずに放置したもの。ちなみにこれも……
ここまで書けば、お読みくださっている皆様には多少なりともわたしの性格に察しが付くことだろうと思う。
ちなみに先日Twitterに画像つきでつぶやいたものにも、わたしにしては珍しくたくさんのスキを頂いていた。喜んでいいのか、なんとまあ。
どうしてこうも形にならないエピソードや覚書が無尽蔵に増えていくのだろう。
わたしは天才肌のアイデアマンでも、努力家のアイデア職人でもないのに、なんでもない想像や妄想は日々ぽこぽこ生まれては走り書きに収まり、ぼんやりとスマートフォンに居座り続けている。
***
わたしは時々、写真を撮る。
なんてことはない。春なら桜、夏なら海、秋なら紅葉、冬なら雪を撮る程度の、楽しい創作活動だ。今時期ならきっと梅がいいだろう。
と思って、ちょうど先日撮ったものがあったから、箸休めにでも載せておく。
こうして季節を追い、シャッターを切り、PCでフォルダ分けして保存するのは、その時々でしかできないかけがえのない瞬間を捉えたような気持ちになる。
事実そうだと思うし、そういう楽しみ方が自分にあっているのだけど、時々考えるのだ。
わたしが季節を撮っているのか、それも季節がわたしに撮らせているのか、と。
不可解なことを言っているかもしれない。でも目的と手段が入れ替わるような、手のひらで転がしていると思ったら転がされていたような、小学一年生がランドセルに背負われているみたく見える新学期のような、そういう気持ちになることがある。
言葉をざくりざくりと溜め込んだあのメモ帳たちも、もしかすると”そう”なのかもしれない。
生活の中から言葉を取り出したのか。それとも言葉から生活が生まれたのか。わたしが言葉を書いているのか。言葉がわたしに生活をさせているのか。卵と鶏のいたちごっこみたいだ。
ちょっぴり変なことをわさわさと書いてみたけれど、きっと人の目から見た日常にはたくさんの言葉が溢れていて、そして言葉が持つ「定形」から生まれた現象もたくさんある。
それらを眺めていたら、どっちが先かなんて判断しようと思ったらわたしひとりの人生ではとても足りなさそうだなぁ、と思ったのだ。
だからわたしが元・ネタ帳であったものたちを放置するのも、きっと仕方がない話だね。
今夜は良い言葉の夢を見てくださいね。おやすみなさい。
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