見出し画像

"法" とは願い! 願う主体は誰なのか?-真鶴町のまちづくりと願い-

法とは願い。そして願いはいろいろ。

李斯「"法" とは願い! 国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ!」

画像7

(原泰久『キングダム』(集英社、2017年)46巻より引用。)

冒頭の引用は漫画『キングダム』のワンシーンです。秦の政治家である呂不韋(りょふい)の四柱(※臣下のこと)の一人、李斯(りし)が同じく政治家である昌文君(しょうぶんくん)に対し「“法”とは何だ?」と尋ねます。これに対し昌文君は、「刑罰をもって人を律し治めるものだ」と答えたところ、李斯は「刑罰とは手段であって法の正体ではない」と切り返します。そこで、昌文君が「では、法とは何なのだ」と李斯に問い返し、李斯が答えた場面です。

法学の世界でも法律実務の世界でも、こうした考え方は必ずしも無条件に肯定されない傾向にあります。なぜならば、国家が個人に対して特定の価値観(善き生き方)を押しつけることは、自律的な個人を尊重(憲法13条前段参照)していないのではないかと捉えられるからです。典型的には、賭博罪などの風俗犯や薬物犯罪、あるいは街の景観に関する行政の施策などがあげられますが、その保護法益(法律等によって保護される生活利益)の当否について立法論や解釈論で頻繁に議論が生じます。法律によっていかなる価値を保護するかという点で、勤労の美風であるとか、街の美観風致であるとか、そういった人によって見方が異なるような抽象度の高い価値は議論として白熱しやすいのです。『キングダム』における李斯も国によって文化が異なる点を強調してそれをまとめて統一中華として統治することの困難さを説いていました。

住民は街に何を願うか?

ここで、もう少し街づくりについて踏み込んで考えてみましょう。

一口に「街の美観風致」といっても、人によって思い浮かべる好ましい景観は様々です。ある人はモダンで統一的でシンプルな外観によって街をデザインするほうがよいと考えます。ある人は伝統的で自然に溶け込むような調和のとれた和の配色で街をデザインするほうがよいと考えます。人によっては、そもそも街の景観はどうでもよくて、刺激的な広告がひしめくような大衆的な商業都市にするほうがよい(あるいは、街づくりは自由な経済活動に委ねておいて結果的にそうなってしまうならやむを得ない)と思う人もいるかもしれません。価値の抽象度が高くなるほど合意の形成は難しく、仮に合意に達したとしても不満が残りやすくなります。

しかし、街のデザインが必ずしもうまくいかないわけではありません。

画像8

写真:真鶴町役場 より引用

ここで街づくりについて興味深いケースをご紹介しましょう。神奈川県真鶴町のケースです。真鶴町では、開発からの環境保護を背景として「美の基準デザインコードブック」に基づいてまちづくりが行われてきました。このコードブックの法的な位置づけは、簡潔に言えば、まちづくり条例→まちづくり条例施行規則→デザインコードという参照構造の中にあります。要するに、このコードブックは、行政法学上の法規命令に該当し、条例と同様の法的効力があります。言語化された「美」が法的な効力を持っているのです。

もう少し厳密に見てみます。真鶴町には真鶴町まちづくり条例(平成5年6月16日条例第6号)があり、同条例第10条柱書は「町は、まちづくり計画に基づいて、自然環境、生活環境及び歴史的文化的環境を守り、かつ発展させるために、次の各号に掲げる美の原則に配慮するものとし、その基準については規則で定める。」として「美の原則」を定めています。これを受けて、真鶴町まちづくり条例施行規則(平成5年10月6日規則第10号)第6条では「条例第10条に規定する美の基準は、別に定めるデザインコードによるものとする。」としています。その「デザインコード」を掲載した紙媒体が「美の基準デザインコードブック」ということです。

iOS の画像 (5) のコピー (1)

真鶴町まちづくり条例
(目的)
第1条 この条例は、真鶴町総合計画に基づき、真鶴町の豊かで自然に恵まれた美しいまちづくりを行うため、建設行為の規制と誘導に関し基本的な事項を定めることにより、町民の健康で文化的な生活の維持及び向上を図ることを目的とする。
(基本理念)
第2条 真鶴町は、古来より青い海と輝く緑に恵まれた、美しく豊かな町である。
 町民は、これまでこの資産を守り、これを活かしつつ、この町に独自な自然環境、生活環境及び歴史的文化的環境を形成してきた。
 環境に係わるあらゆる行為は、この環境の保全及び創造に貢献し、町民の福祉の向上に寄与しなければならない。

この『美の基準デザインコードブック』は、アメリカの都市計画家・建築家のクリストファー・アレグザンダーが著した『パタン・ランゲージー環境設計の手法』、イギリスのチャールズ皇太子による著書『英国の未来像-建築に関する考察』の中で提唱された「美の10 原則」と、条例制定前の1989年度に行われた住民による地域資源の掘り起こしイベント「まちづくり発見団」の成果(報告書)を参考に策定されました。策定には、弁護士である五十嵐敬喜氏を筆頭に、建築家の池上修一氏、都市プランナーの野口和雄氏の3人が関わり、住民との協議を重ね2年がかりで「美の条例素案」を作りました。「美の基準」は真鶴町の風景を育む69の言葉(キーワード・パターン)で出来ており、定性的な基準として約20年、景観づくりを積み重ねてきました。

そして、このデザインコードブックがどのようなものなのかは、次の言葉に集約されます。

“真鶴らしさ”というように、『美の基準』で示す事柄は、
真鶴にとって特別なものではなかった。
もともとあった真鶴の、“みんなが漠然といいなと思う部分”を
「美」と定義して言語化したものなのである。
https://colocal.jp/topics/art-design-architecture/manazuru/20161018_83125.html

iOS-の画像

iOS-の画像-(4)

つまり、その街の歴史を通じて潜在的に皆がよいと思ってきたものを話し合いなどを通じて改めてよいものとして意識的に言語化したのです。街の皆の「よい」を集約したものが「美の基準」ということです。もし街の歴史とは無関係に「よいもの」があげられたり、住民の意識を考えずに「よいもの」をピックアップしていれば、住民の誰もがよいと思えることとして、ここまでまとまることはなかったでしょう。

『美の基準』の運用――定性的基準の下での対話

それでは、『美の基準』は、具体的にどのように運用されるのでしょうか? 一般的には、行政側が定量的に表現されるような明確な基準を持っており、それでも基準から読み取れないことについては個別に照会して回答をもらうという手続を踏むものと考えられています。ところが、「美の基準」の運用については、そうではないというのです。定性的な基準をもとに当事者同士が協議する方法を採用しているのです。

抽象的であるにしても地域固有の景観をかたちづくる基準を採用していること、そして具体的な解決方法を当事者同士で確定する協議方法や仕組みを採用すること。この2つの条件が確保されていれば、定性的基準による景観形成は、公平性や客観性という問題を克服し、一つの方法として成り立つことが、美の基準の運用から示された。 
(出典:卜部直也:美の基準が生み出すもの -生活景の美しさ-

要するに、法の個別委任によるトップダウンの正統性よりもボトムアップ型の対話の仕組みによる正統性を狙っているということでしょう。上から「正解」を与えるのではなく、「正解」がない中で対等な立場で議論して合意するわけです。文章は次のように続きます。

「美の基準」がレビュー型の基準として、個別の敷地の具体的な特徴を元に、当事者による最適解を探 っていく双方向型協議に基づき実現を図る基準であることが明確になった時、リクエスト提案はより積極的で幅広いものになった。担当者同士で、組織の決裁過程の中で、建設行為者との窓口協議の中で、むし ろ、主観と主観のぶつかり合いにより基準の具体的解決が当事者同士により確定している。 窓口で声を荒げる者もいる。「誰がふさわしい色を決めるんだ!」。即答する。「あなたと我々、当事者 です」。
(出典:卜部直也:美の基準が生み出すもの -生活景の美しさ-

iOS-の画像-(2)

iOS-の画像-(1)

iOS-の画像-(3)

こうして、『美の基準』は真鶴町にとっての「共通言語」になっています。共通言語があるからこそ対話が生まれ、新しいカタチが生まれ、それがまた価値となります。そんな美しいサイクルが真鶴町には起こっています。

「願う」のは誰か?

冒頭のキングダムの話に戻りましょう。引用した発言は、大要、法とは刑罰をはじめとする強制力を背景にした規範なのだという見解(これは現在の我が国の法学における通説でもありますが)に対して、それは手段の話だろ、中身の話をしているんだよ俺は、という切り返しの場面であると理解できます。「悪法は法か?」というよくある難問の別バージョンだと思っておいてください。キングダムの李斯が気にしていることは法の実体的な価値が民の間で共有されるのかという点です。

強制力のあるルールだっておまえは言うけどさ、それによって達成される価値ってなによ? その価値は本当に実効性を持つのか? いったい誰のための法だよ?……と、このような趣旨なんだろうと思います。「願い」や「理想」という言葉からすれば、実体的価値としての善悪を問うているものだと捉えられます。それでは、そこにいう「善(理想)」とは何か? 誰が「願う」のか?

「願う」主体が「国家」であるならば、自分以外の他人の意思が介入することを意味します。日本であれば国会議員や行政官僚かもしれませんし、いまの中国であれば共産党かもしれません。日本の場合は形としては間接民主主義ですが、実際に法律案をつくるのは末端官僚からで、その元ネタは内閣か世論か官公庁内部の3つのうちのどれかから湧き出てきます。どこで誰の意思が反映されているのか、少なくとも外からはなかなかわかりません。さらには、実際に法律を扱うのは法律実務家が中心なので、解釈にも個別の法律実務家の意思が反映されてきます。たとえば、裁判所は、判例・裁判例という形でこれまでになかった法を創るという見方ができます(裁判による法創造)。

さて、そうすると、我が国ではいったい誰が願っているといえるでしょうか? 国民の間で法の実体的な価値は共有されているでしょうか?

このように考えていくと「共創」との関係が見えてくるかもしれません。

参考資料

<真鶴町視察レポート> 「美の基準」と民間主導のまちづくりについて
卜部直也:美の基準が生み出すもの -生活景の美しさ-


「法律を身近に」をビジョンに掲げる弁護士とデザイナーの課外活動。
運営:平塚翔太(弁護士/第二東京弁護士会)、稲葉貴志(デザイナー)
協力:いろいろな人たち
連絡先:hiratsukahoumu@gmail.com

いいなと思ったら応援しよう!