北大西洋本鮪(クロマグロ)定置網事業その6
<2010年シーズン>
春先からの相場の高騰にも助けられ、獅子奮迅の活躍で出荷者の信用を勝ち取りつつあった。また買い人との信頼関係も構築され、囲いの顧客ができ始めた。さらなる飛躍のためにはその5でも述べたが、究極のセリの取得が必要だと感じていた。手ヤリを読むタイミングやセリ落とすタイミング一つで値段も変わるし、買い人のテンションも変わる。セリは歌と同じ、すなわちライブである。一定のリズムを刻むだけでは臨場感は出ない。セリ人のリズムで手ヤリの出し方も変わる。手ヤリの出し方で手ヤリを読むリズムも変える。そこにセリ人と買い人の間の無言のコミュニケーションが生まれる。それが買い人に取って心地よいのである。しかしそこまで突き詰めてセリを行っているセリ人は当時の(もちろん現在も)いないように私には映っていた。そこを追求することで他と差別化できるのではないかと考えたのであった。
そしてこの年もまた桜が散り、出張の季節がやってきた。
ただ昨年との違いは、何としてでも鮮度の良い状態で日本に持ち帰るという強い意志で臨んでおり、もちろんI氏とも共通の認識であった。
まずマグロは鮮度が命なのだが、その肉の状態が鮮度の良い順に
チヂミ→ベタ→ボケ→ヤケの順に変化する。
もちろん売れる価格が下がっていくわけなので、
いかにチヂミ率を上げてヤケ率を下げるかがポイントでありそれにより売価が大きく変わるので、その年の損益分岐にとって非常に重要なことであった。
ただし、マグロのプロとしてこれだけは言っておきたいが、チヂミの方が市場価値が高いというのはあくまで昨今のスーパーなどにおいて売り手がプロ(魚の)でなくても売りやすいという理由からであり、本質的に価値が高い(美味しい)かどうかは別問題である。
当時の北大西洋定置網漁においてはチヂミ率は30%程度あった。その理由としては、何匹マグロが網に入ろうが全てを一気に上げてしまうためであった。100匹以上取り上げると大抵ヤケが出てくるのである。実は昨シーズンから一部の網では試みとして網の中でマグロをセパレートして一回の取り上げ50匹~100匹の間で行うことをしており、これが功を奏していた。これを今シーズンは全面的に行うことで、チヂミ率を上げ、ヤケを極限まで減らすという戦略を練っていた。理論上は簡単なのだがモロッコ人漁師の協力と技術が必要であった。チヂミ率とヤケ率如何で致命傷になる可能性があるのである。何とも言えない緊張感がそこにあった。
◎生産現場における集大成
取り上げが始まりマグロも順調に入り始めた。そして網のセパレート作戦は思いのほか順調に行っていた。そしてある夜のこと。なんと網に600匹のマグロが入ったのである。従来の一発取り上げであれば、500匹がヤケてしまう場面である。実は前年の出来事であるが、網に800匹のマグロが入り、それを漁師たちが一発取り上げを試みて750匹が網の中で死んでしまい、スペインで塩漬け原料になるという悲しい出来事が起きていた。突然の決戦前夜となり、これ以上ない緊張感が我々を襲った。しかしこれを何とかヤケゼロで切り抜けようとチャーターしていた5隻の船が全て集結した。いつもはマグロを吊り上げるクレーンは1機なのだが、この時は3機のクレーンでどんどん吊り上げ、運搬船でピストンを繰り返した。私は例のごとくその年も加工船Cで選別をしており、迅速に加工を進めるのに必死になっていたが、加工が終わった時点でヤケがゼロ本。他の加工船に聞いてもヤケがゼロ。信じられなかった。この事業に携わって4年目であったが、こんなことは奇跡という他なかった。苦しいことがほとんどであったが、初めて仕事で充足感を覚えることができた。古代ローマ時代から2千年以上続く大西洋定置本鮪の伝統漁業の集大成ともいえる出来事であった。あまりにも興奮が収まらず、その日は疲労困憊なはずなのに高揚して眠れなかったと記憶している。この大勝利はスペインのマグロ会社の協力とモロッコ漁師たちの頑張りによって生まれたものであり、自然と一体感を感じることが出来た。生産現場での努力の結果、この年の我々共同事業のチヂミ率は7割という前代未聞の驚異的な数字に達し、このことがまたしても会社に利益を残す結果となった。
◎セリ人としての成長期
また一方でセリ人としても成長期に差し掛かっていた。前述のように理想とするセリのあり方も見えてきたし、それに向って着実に進んでいる実感もあった。セリ人デビューから1年経ったころにはセリのテクニックを上司や先輩、仲買人などから褒められる機会が増えてきた。そこで次の目標を立てることにした。1年で他のセリ人よりも常に高く売ること。そしてビリだった築地でのシェアを1位にすること。
しかし、書きながら思い返すと、当時はかなり時間をかけて目標を達成した気持ちでいたが、実際はわずか半年ほどでシェアは築地で一番になっていた。その頃には他社に出荷していた出荷者からも一目置いてもらえるようになっていたが、会社同士の取組み経緯もあり、高く売ったからと言ってすぐにその荷物を請け負うことは簡単ではなかった。しかし今度は私の中でシェアの独占という野望を抱くようになっていたのである。自分にしか出荷されない状況を作りたかった。そのためには他社の積まれている荷物を奪い取る。それには高く売り続けるしかなかったし、高く売り続けることができた。そのための武器を持っていたからである。それこそが究極のセリある。そう、必死にやっていたら気づかぬうちに身に付いていたのである。セリは生き物。それを支配することができるようになっていた。
そしてシェアを独占したいという野望は周囲にも漏らしていた。それまでの私は不言実行が美学だと思っていた。しかしその時はなぜかその気持ちを他の人に共有したかったのである。
余談であるが野望に向けて邁進している頃、大手新聞社から会社を通して取材を受けることになった。就職活動中の学生さんに向けて仕事を紹介する記事であった。私のモロッコ出張での奮闘とセリ人としての活動を書いたものであった。その時の取材の様子だが、ボイスレコーダーを回しながら雑談形式で進めていく形であった。自分でも言っていることが支離滅裂だと思って話していたのだが、記事になったのを読むと見事に私の伝えたかったことが綺麗に纏められていた。まさに記者としてのプロフェッショナルな仕事だと驚嘆せざるをえなかったことを覚えている。
↑今から10年前。。。。若い
。。。続く
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