時間と空間を埋める作業
フゥ。
働いてますよ。
社会人なので。
私には何が足りないんだろうか。
なんでいつも何か「足りない」と思いながら生きてるのか。
何を得れば「足りてる」と思いながら生きることになるのか。
毎日に満足感を持って生きることは可能なのか。
他の人たちは意識せずとも「足りてる」と思う毎日を生きてるのか。
それとも皆私と同じように生きている限りは常に何か「足りない」と思いながら、その足りない何かを探して得るために何かをし続けているのか?
もしくは「足りない」毎日にこそ満足感を持って生きられているのだろうか。
私は満たされている。
きっと。たぶん。
満たされてはいるけど、足りないと感じる。
何があってもどんな時でも足りないと感じる。
足りたらどう思うんだろう。
「幸せ」だと思うのか「死にたい」と思うのか。
でももう満たされているのに何が足りないのか分からなくて、これ以上何を得ようにも何を得たらいいのか分からない。
週末もその次の日もいい天気だった。
この天気を保存して全世界に共有すれば何も不幸は起こらなくなるのでは?と思うくらいには好きな天気だった。
天気が良ければ満たされる。
天気を感じられる自由な場所と時間と身体感覚。
素晴らしいわ。
この国は狭いのでふらっと気が向いた時にその辺で寝っ転がれるような広場などがあんまり見つからないのですが、もしそんな広場などがふらっとあったらふらっと寝っ転がって「毎日こんなんだったらいいのによ」と思いながら雲を見てたと思うわ。
毎日そんなんでいいのかな。
それでも毎日満たされていてそれでも「足りない」と思いながら生きるんだろうな。
私は何を求めてるんだろう。
生きるとは、生まれてから死ぬまでの完全な空白を時間的にも空間的にも埋めていく作業なのかもしれないと、そのいい天気だった週末にふらっと思いました。
それは仕事だったり、趣味だったり、病気だったり戦争だったり、他人だったり物質だったり、行動だったり思考だったり。
だったりゲシュタルト崩壊。
意味だったり無駄だったり、そんな区分けは本来はなくて、それは私たちがミクロな視点で周りを見たときの幻でしかないと思っているよ。
だから何か意味のあることをしようとしたり、無駄を省いたりしようと思うことはなくて、でも何かその生きている間の空白を埋めたがるのか、体は思考をしようとするし何かを五感に入れてその情報を処理していたいという欲求に駆られる。
何も見ず何も聞かず、何にも触れずに生きることがどんなに苦痛かを、それを経験したことはなくてもなぜか知っているので、それに意味があるとかないとか、本当はどうでもよくて、何かしらで常に埋め続けている。
私は生きていていいのか。
なんか常にその疑いがうっすら心の奥に溜まっています。
「生きていちゃダメだよー」と言われたところで簡単に「じゃあ生きるのやめるよー」となれないくらいには執着心のある人間なのでこんなことを考えたところで、と思うのですが。
たくさんの生き物を傷つけてきたし殺してきた。
人間も含めて。
私はたぶん人より表現欲求の高い人間なので、このように文字数が多いのですが、この文字によっても誰かを殺しているかもしれない。
私は毎日何かを消費している。
私が肉を消費するということは私がその動物を殺したということです。
消費の選択権は消費者にあるわけで、だからこそ直接手を下す生産者さんたちにその罪を委ねるわけにはいかない。
あくまでその生き物を「殺す」という選択をしたのは消費者の側であると、自分の消費の自由な選択は、同時にその選択に伴う罪を背負うということです。重たいです。
軽々しく買い物をするという行為の罪の重さが。
でも、しょうがないと思ってしまう。
だって生きたいのはみんな(かどうかは分からないが)だし、生きている限り、何かを殺し続けていないといけない。
なんでだよ。このシステム。
そんでもって動物に共感能力を身につけさせる。とんでもなく不合理じゃないかよ。
一つの生き物が生き続けるのに多くの命が失われている。
私も今までの間に数えきれない命を奪って生きている。
これからも生きるとしたら、今後も同じように生きていく。
一つの生き物が生きるのに無数の犠牲者が必要なんだとしたら、その一つの生き物は誰であるべきなんだ。
そんなの選べないって分かってるが。
じゃあその「一つの生き物」のうちの一つが自分でいいのか?自分であることを望んでいいのか。
意味もないのに、犠牲の上に長生きをすることは尊いか。
もうこれに関しては一旦考えることをやめよう。
結局どんな結論に至っても自分は助かりたいと思ってしまうのが生きていたい人間の性なんだから。
ただ、自分が奪われる側になったとき、無差別に、安っぽく、悪気なく簡単に消費されていくことがどんなに苦痛であっても、それは奪う側の自分が今までやってきたことと同じなんだという自覚と対峙しなければいけなくなる。それだけは心に留めておかないと。
自我が芽生えちゃった霧
自分がときどき実体として存在していることを忘れてしまう。
何を言ってるのかと思われるかもしれないが、たとえば人と会話しているときも自分が今人と会話しながら、「人と会話している自分」がそこに存在していることを忘れちゃうというか、偽物?というか、会話している自分を外側から見すぎて会話している自分と思考している自分が切り離されちゃうというか。
本当に自分は他人の目によって、実体を持った人間として存在しているのか、リアルに関わりながら疑わしくなっちゃうときがある。
自分はもしかして今霧みたいになってるんじゃないかと思ってしまう。自我の芽生えた霧。
私はたぶん頭の中だけで思考しすぎてそれが外に出ていかずに脳内を流れるプールみたいに逡巡していることがあって、ことがあってというかデフォルトがそんな感じなんだけど、そのせいでおそらく自分の中だけで世界が完結しちゃって、「外と関わりあっている自分」という存在があまりにも曖昧になってきちゃっているのかもしれないですね。
これは流石に重症案件です。重体じゃないですが。
皆さん私を認識できていますか。
認識してくれていたらありがとうです。
自分がどういう存在なのか分からなくなる。
自分が自分を見るときどう見えるかは、そのときの自分の精神状態に大きく影響を受けるので、まったく、自己愛と自己否定はなんでこんなにも水と油みたいに切り離されて、うまく中和してくれることをしないんだろう。
自分は良い存在ですかね。
良い存在になりたい。誰にとっても。
自分が霧なら良い霧になりたい。
どうせ霧なら全部を包みたい。
もう。
メタファーで遊びすぎると何を言ってるんだか分かんなくなっちゃう。
フゥ。
中途半端だが書きたいことは書けました。
満足。
流れるプールのお水を定期的に入れ替えて脳内を清潔に保ちますよ。
文章を書くときは大概お水が濁ってきたときなので多少グルグルと汚いお水を流してしまうことをお許しください。
そんなわけで今日も私は元気ですね。
よかったよかった。
皆さんもお元気で。チャオ。