苦手科目:現実
ハロー。
溶けてます。
今週は終わらない仕事と向き合わなければならない気持ちと向き合わなければいけなかったのですが、終わらないまま辟易してしもた。
何もしてない時、いや何かしてる時も常に、何かを考えていて、というか人間は生きている限りずっと何かしらは考え続けていると思っているのだけども、はっと現実に戻ったときに自分がこの空白の時間何を考えてたのか忘れちゃう。
本日は例年になく投票に行きました。
人生で2回目っす。
すみません。
1回目はたまたま実家に帰っていて家族で行ったので、自分の意思として行くのは今日が初なんですね。
どの党がどうこうとかは全然無理解ですみませんなのだけれども(国会答弁?のヤジを聞いているだけでそれを定期的に思い出してしまうほどストレスフルになってしまうので)
いろいろ思うところもあるのですよ。
そもそも私は別に自分にとって良い世の中を望んでいるわけじゃない。
自分の感覚でしかないのですが、私はあまり自分の考えに対してマジョリティ性を感じたことがなくて、それに対しては別に悲観的に思ってるわけじゃないけど、そうしたら私が「良い」と思うことが他の人たちにとっても「良い」のかどうか分からない。
よく選挙の時期になると「若者が投票に行かないと投票者の年齢層が上がって年配層の意見が通りやすくなっちゃいますよ。それでもいいんですか?」みたいな煽りを聞くようになるけど、(別に私は若者でもないけど)年配者の意見だってよく考えているのなら通してほしいし高齢者が生きやすい社会であってほしいと思っていますよ。
私は配偶者も子どももいないけど、子育てに優しい社会であってほしいと思っていますよ。
投票率を上げるために安易にカテゴライズして対立構造を作るのはもうやめてくれー。
これは別に選挙に関わらず全ての意見に言えることだけど、ただ自分一人の意見を、大きな属性を主語にして、語尾を断定させて、その属性に当てはまる存在が皆その意見を持っているのだと言わんばかりの主張をすることをみんなで減らしていきませんか。どうですか?
「若者は、高齢者は」とか「男性は、女性は」とか「今は、昔は」とか「異性愛者は、同性愛者は」とか、わかりますけどね。伝わりやすいもんね。「傾向がある」くらいのことは、言えるかもしれないけどね。でも「傾向」なんて結局一人一人を見ればバラバラに分散されている訳だしなあ。
いや別に、そんなめんどくさいことを日常会話にも求めている訳でもないし、私にもきっと無意識に断定的な部分はあるんでしょうけれども、どうもこの時期、政治的なことにも色んな意見が散見されて、もう辟易。
「私の意見は」やろ
「〜と思う」やろ
と感じてしまうような言葉に刺されてしまう。
自分たちだけで、対立したい人たちだけで対立していただく分には十分問題ないのだが、戦いたくない人間をその属性だけでチーム分けしないでくれよ。お願いだー。
私が私として存在するだけで、外側から作られた概念に自動的に振り分けられてしまう。私はカテゴライズされた概念として存在しているのではなくて、ただ私としてここにいるだけなのに。
話めっちゃ逸れてました。
別に本題もないけど。
アメリカに1年行って、コロナ禍で日本に帰国しなければいけなかったとき、アメリカの変化の早さに驚いて日本の変わらなさにこれまた辟易してしまったことがある。
日本ももっと変化に柔軟になればもっと早い速度で新しい考え方を取り入れられるようになってもっと寛容な社会になるのではと思っていた。
でも、そもそも生き物は世の中の変化に敏感で、その安定性が日本の文化であるとき、社会が今まで以上のスピードで変化していくことは、もしかしたらこの国のほとんどの人間にとって脅威なのかもしれない、とも考えるようになった。
社会が大きく変わるときは自殺率が急増する、といったような統計を耳にしたことがある。
そしてそれはその社会にとってポジティブな変化でも同様に、らしい。
そうなのだとしたら、自分が社会に変化を望むことによって、自殺志願者を増加させてしまうこともあるのかもしれない、と思った。
自分という人間一人が社会の全体に影響を与える大きさは限りなく0に等しいのかもしれないけれど「清き一票」に価値があり社会を形成する権利があるのだとしたら、自分の意見一つでこの社会の誰かが死ぬことになる可能性があることは承知しておかなければいけないような気がする。
選挙に行っても行かなくても、社会に存在している以上、何かしらの影響を与えている。(私は年に一回の投票よりも毎日の個人の消費の方が多いに影響を与えているのだと思っているけど、長くなるのでまたいつか)
だから「行った方がいい」になるのか「行かない方がいい」になるのかは分からない。
そもそも選挙制度が現時点でのベストか、についても常に疑ってかかる必要があるし。
だから投票という行為をするかしないかも、自分で決めていいはず、なのだ。
昨今は大分投票率を上げることに(「国が」なのか?)力が入れられていて、叫ばれている。
著名人も多く呼びかけている。
その中には、
「投票に行く=政治を考えている」
「投票に行かない=何も考えていない」
と捉えて投票に行かない人間を揶揄するような人もいるけれど、それは流石に考えが浅はかなのでは、と思ってしまう。
本当にこれに意味があるのか、このやり方が最善なのか。
行動を起こすのは自分で考えているからで、行動しない人は考えていないからなのか。
本当にただ世間がそう言っているから行動しているわけではないと言えるか。
考えたことによって結果的に「行動しない」ことを選択する人もいるのではないか。
自分の行動は基本的に自由であるし、それは他者もそう。
だから自分が行うべきと思っている行動を、他者がどう考えているか、自分が何を考えていないかに目を向けず「行うべき」と主張するのは違う気がする。
ただ行わないことで行わない自分を正当化し続けるのも「なんか違う」と思っていたので、今日は投票に行きました。
この行動に意味があるのか、良くなるのか罪悪感を抱いてしまうか、自分の意見を他者にも適用していいと思うか。
その上で、今後の行動を決めていきたい。
こんなことをこんなに書くつもりじゃなかったのでこの辺でおわりにします。
全然違うことを書くつもりだったけど今は辟易モードなので後回し。
おわらない仕事。
(余談)
音楽を聴いています。
聴く音楽が変わると、なんか生活も変わったような気分になる。
昔よく聴いていた曲を聴くと、その時の視界、暑さとか寒さ、そのとき関わっていた人たちを思い出すことがよくある。
今、昔の自分を思い出すように、この先、自分は今聴いている音楽をいつかまた聴くことで今のことを思い出すんだろうなと思う。
不思議なくらい音楽は記憶を結びつけてくる。
だからいつまでも音楽を聴いていようと思っています。