私は私が死んだ後に作られる本とか映画とかに触れることができない(かなしい)
ふにゃにゃにゃ〜
先日誕生日でした。(ありがとうございます)
本当に、今年は気負わないようにゆるく生きてましたが、思った以上にゆるゆるにダグダグに生きてしまいました。
私は、私が生きやすい方向と私が憧れる方向がほとんど正反対を向いていて、常にどちらもを行ったり来たりしながら、皆が100m走をしている中自分だけが反復横跳びをしているような、そんな生き方をして自問自答しつつ、それでも結局反復横跳びで死んでいくんだろうなと思いました。
ちょっと前まではどちらかを選んで100m走をするべきなんじゃないのかと思っていたが、別に私は人生のどこにもゴールテープを貼っておらず(だってどこをゴールにすればいいか分からないから)じゃあ別に、どこへ走ったって、走らなくたって、それは正解でも間違いでもない。
私は何を目指しているのか。
なにも目指してないんだった。
そういえば。
ただ生まれて、ただ浮かんでいただけだったのに、いつからか「ただ浮かんでいるだけじゃダメなんだよ〜」というどこから生まれたのか分からない暗示が押し寄せて、もがいて、もがけばもがくほど溺れていくような状態に陥ったり。
いや〜もう。
色々なことがありましたね。人生。
今年も色々ありました。
思い返してみれば生まれてからここ数年前まで、ずっと恵まれて幸せで、そんでずっと鬱だった。
ずっと楽しかった記憶しかないし、ずっと鬱屈としていた記憶しかない。
自分の表と裏を、ずっと乖離させて生きてきたかもしれない。
それでも本当に楽しかったし、本当に苦しかった。
他人が自分を受け入れてくれる時、自分の表側と裏側は徐々に一体化していって、自分はもっと素直になれるんだろうか?
言い訳をして生きたいわけじゃなく、もっと正直に生きたい。
好きなものをちゃんと好きだと思えるようになってきて、今度はちゃんと好きと言えるようになりたい。
ずっと自分の好きなものが分からずに生きてきて、それでもちゃんと「ある」と思ってきた。
私が好きなものを好きと言うことを受け入れてくれる他人がいるということを学んできた。
人間が好きです。
いつも言っているが。
個人が、他人と切り離されるための「その人」たる所以の部分が好きで、それは固定された一つのものじゃなく無数のその人の要素の複合的なバランスで成り立ったものかもしれないが、その俗に「個性」と呼ばれるものは自分の一つ一つに正直になるがゆえに出来上がっていくものだと思っている。
だからちゃんと正直に生きたい。
なんだか周りくどいことをくどくどと言ってますが(いつものことです)
ちゃんと他者と繋がりたいと思っている。
内部と内部で。
そのために生きている。
だから本も読むし、映画も観る。
私も作れるようになりたい。
なんか今まではそうやって他者と間接的に繋がれることをずっと求めていたけど、直接繋がれるのならばそれでもいいかもしれないと思えるようになってきた。
ありがとう。人々。
本当に、人に生かされている。
私はあまり言葉を信用していないというか、言葉とは世界そのものではなく抽象化された記号でしかないという認識なので、言葉で全てを受け取ろうとする人間をあまり信用できないということを度々言ってしまうが、それでも言葉は便利で、記憶したり、伝えあったりするときに言葉を多く使うのであれば、その言葉が作られる結果となった元の世界を想起できるような深い人間でありたいと思っている。
Google翻訳みたいな。
ラーメンがあるとする。
私がそれを見たとき、私は「それ」ではなく「ラーメン」として記憶する。
私がラーメンを食べたとする。
私は「その時その場でそれに対してそういう行為をした」ではなく「ラーメンを食べた」として記憶する。(もはやその場面は言語化することすらできない)
私がラーメンを食べたことを思い出すとき、そのときのそれを思い出すのではなく、ラーメンを食べたことを思い出す。
「思い出とは過去を再構築すること」みたいなことを誰か言ってなかったっけか。
ということは私は、というか人間は過去を「作り直す」ことはできても本当に「思い出す」ことはできないのかもしれない。
でも私はラーメンを知っていて、思い出すことができないのならなんでラーメンを知っているんだ?
私の思う「ラーメン」という概念はいつのどこで見たラーメンなんだ。
私の想起するラーメンのイデアは私の中にいつどうやって生まれたんですか?
私が他者を見るときなんでその人を「知っている」と思うんだろう。
思い出すことができないのなら。
「それ」ではなくやっぱりその人の「概念」として認識してるからなんだろうか。
ちゃんと覚えていたい。
ラーメンを食べたときのことを「ラーメンを食べた」として理解していたくない。
ちゃんとその時の自分の外側と内側を自分の中に留めておいて、抽象化された概念の中に自分の記憶を簡単に閉まっておくことをしたくない。
だから「物事を簡単に解釈する」とか「断定的な結論を下す」みたいな行為に対してあんまり肯定的な気分になれない。
小説を読む時「行間を読む」なんていう言葉を使うけど、それはそれこそが本質だからだと思っている。
言葉はトリガーであり本質ではない。と思っている。
大人になってから、言葉の世界に生存している人の方が多いのかもしれないと思うようになってきた。
もしかしたら人間は私が思ってるより言語的な世界に住んでいて、私は人間たちとあまり世界を共有していないんじゃないかと思うようになる機会が増えた。
安易に言語化し言語化させようとし、本や映画の感想までも言語化を求め、その時全身で感じた過去の記憶を、簡単に言葉の世界に閉じ込めようとしてくる人間たちもいる。
そうしたいならそうすればいい。
そういう人間たちだけでやってくれ。
それでもそういう世界になっても、言葉をトリガーとして内部で繋がれる人たちもいるということを知っている。
そうやって人とつながってきたので。
だからちゃんと深さを知りたいし、生きている限り色んな行間に触れたい。
表現物というトリガーのその奥を覗ける人間でありたい。
ちょっと被害者意識みたいな文になっちゃいましたが。
そういう個性も含めて人間が好きです。
そんなわけで、今年の目標は「正直に好きを伝える」ことです。
あと「外食を減らす」です。金かかるので。
皆生きていきましょうね。
生きていられる限り。
以上ですね。