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知的謙虚とそれによる優越?

どうもどうも。
生活に追われています。

今後は日々の記録を寝る前に書いていこうと思ってこの前Notionにまとめはじめたのだが、2日で挫折してました。

毎日色々考えてるはずなのだが何を考えてたのか分かんなくなってしまう。
何をしてたのかは当たり前のように忘れていくが、何を思ってたのか忘れちゃうのはちょっと寂しくなっちゃいますねえ。

さて。

日頃から自分を信じすぎないようにしたいし、自分を常に疑っていられるようにしたいと思っている。
自分も他者も常識も社会も現実も思考も今も過去も存在も科学も宗教も何もかも心から信じるものを作らないという意志。(ただの指向かもしれない)

虚無主義であるという選択。

知的謙虚さの高い人を尊敬するしそうなりたいと思っているが、その考え方こそが一つの価値観を持っていることの証明で知的謙虚さの低そうな人を自分は心のどこかで見下しているのではないかという疑念にもなってくる。

「私は自分が全てを知っているわけではないということを知っていますよ。あなたと違ってね」

みたいな傲慢さに繋がってしまいかねないような気がする。

確かにソクラテスは神の前で謙虚でありながら、普通の人とは一味違いますぞみたいな、ちょっと癪にさわる感もある。会ったことないからしらんけど。

いやもしかしたらソクラテスも悩んでたかもしれないし。

人はそれぞれ違う価値観を持っていて、無数の価値観の一つを軸に人間の優劣を決めたとて、その一つがどんなに多くの人間や社会に受け入れられていたとしても、その優劣の評価は表面的には有効でも表面的にしか有効ではないのだから、一つのものさしで人間を並べようとする行為はおろか、無数のものさしの中から一つを選ぼうとする行為だって無意味だと思っている。

だからこそ自分が今まで生きてきた中で自分の中に植え付けたり植え付けられたりしてきたものの見方を信じきらず、自分の世界の狭さを自覚することが必要だと思っている。

ですがそれが。

もはや一つの価値観になってしまっているのだと。

なんてことだ…

私は自分を常に疑っていることで、自らを疑うことのない人間に対する優越の気持ちを抱いているのかもしれない。かもしれないというか、そう。な気がする。


なんでも見えてしまったときの無能感と何も見えなくなったときの万能感が交互に襲ってやってくる。
私も人間なんだから何かしらはきっと持っているだろうし、何でも持っていることももちろんないのに。

「分かりやすさ」とは物事の輪郭をどれだけはっきりさせるかだと思っていて、それは確かに大衆の支持を得やすいけど、ちゃんとグレーを愛せる人間でありたいと思っている。
曖昧で暫定的なものは確かに分かりにくいけど、その方が実際の姿には近い気がする。「実際」があるのかは分からないが、分かりやすくするために「結局どっち」みたいな結論を出してしまおうとするとその「どっち」に当てはまることのない無限のグレーの選択肢を捨てるという狭さに繋がってしまう。

今あるものは全て「暫定」でしかない、ということを常に念頭に置いていたい。(「今あるものは全て『暫定』でしかない」という考えも暫定的でしかないというマトリョーシカが生まれる)

グレーを愛していたいけど、グレーを愛さない意見もちゃんと愛せるようになりたいと思っている。

暫定的である限りは、全てに愛と尊重。

愛だね愛。

おわり。




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