死ぬまで生きればいいだけの話。
急に何もしたくなくなって、一人でいるときの疎外感にも人といるときの申し訳なさにも耐えがたくなって、すべての義務から解放されて社会の宙に浮かんでたいと思う衝動が自分の中に不定期に訪れる。
「あー消えちゃいたい」と思うことはあっても本気で死にたいと思うことはなくて、それは私を含めた生きものというのは待っていればすぐポッと死んじゃうもので、何もしなくてもどうせ訪れる死にわざわざ苦しみや葛藤を抱いて自分から死ぬ努力をするのが甚だめんどくさいと思ってしまう。
私は多分幸せだと思うし、というか自分の欲を満たせるような生活をするように心がけているのだが、どうしてもそれを手放しで喜べないのは「自分なんか」が幸せになっていいのかという疑念が常にあること。
自分なんかが。
他者よりきっと健全な努力も葛藤もない人間が何を恵まれようとしているのか。
それっぽく共感能力を提示して、でも自分も常に余裕はなくて、誰にも何をするわけでもなくただただ共感能力を優しさではなく「共感能力を持つ自分」を担保するためのツールとしてしか使えていない無念。
幸せになりたい自分と、他者より恵まれているくせにそれをうまく使うこともできずただ自分から成り下がっていくような存在が幸せというものを求めていいのかという自己疑念が喧嘩して、自分はどこに向かったらいいのか、何を目指したらいいのかも分からない。
というか、どうせ生きものはすぐに死ぬし、すべての価値観は価値観でしかないのだから別に何も考えなくたっていいのに。
ただ、考えないようにすることが正解なのか。
幸せになりたい自分とそれを受け入れられない自分がいるのなら、受け入れられるように努力をするべきなのか。
自分が幸せを享受できるようになることが自分の目指す道なのか。
見ないことで。
自分が恵まれている中それを手に入れたくても入れられなかった人々から指される後ろ指を無視して自分の幸福を謳歌することが楽になる道?
自分の努力によって緩和できる不条理というのもあるかもしれないが、大概もうこの世界は不条理であるということがもうすでに条理なわけでありまして。
幸せであることの罪悪感を膨らませながら、それでも幸せを追い求めていく。
人にはもちろん好かれたいが、そのうち失望されるんじゃないかという恐怖もあるし、自分にこの世界の何をどうできると思えるほど傲慢で優秀でもないからただ、生きていればいいだけの話なのに。
ただ楽に生きたい。
ただ楽に生きたって見るものを見て苦しんで生きてたって別に変わらないのに。見ないで生きることと傍観者として生きることに外側から見たらそんなに違いはない。
一回、休みたい。
今のことも先のことも一回全部忘れて何もかも考えることを放棄したい。
自分のことも他者のことも。
今まで溜めに溜めてきたやるべきことを(そんなもの本来は無いはずなのに)一旦全部リセットして何もない状態から時々スタートしたい。
諸行無常。
パンタレイ。
何もかも、なくなってしまう寂しさに耐えがたくて、でもそれは自分という存在も一緒だから、別に寂しがる必要なんかないのに。
別に愛も尊厳も、あればあるだけそのうちなくなってしまうし、軽蔑やら侮辱やらにまみれてたって死ぬまで生きてれば一緒なんだから、そんなものにとらわれる必要なんてないのに。
それでもそんなことに捉われてしまうのは自分が他者と同じくらいの大きさで同じくらいの長さを生きるからなんでしょうかね。