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冬の蕾

 恵比寿駅を出ると、冷たい風が頬を刺した。
 そういえば今日は夜から強風になると誰かが言ってたような気がする。

 
 街路樹の葉は気持ちいいくらいにすっかりと落ちて、裸の枝がビルのネオンを寂しげに映す。人々は厚手のコートに身を包みどこかへ急いでいる。

 その流れに逆らうように彼女の足取りは重かった。




 数時間前、最後のメッセージが届いた。

 短い謝罪と「素敵な人と幸せになるって願ってるよ」という自己陶酔に満ちた「願い」。


 既婚者の彼との時間に費やした三年の月日を想うと胸の奥がひどく痛む。

 本気で恋をしていた。

 
 毎日写真付きで連絡をくれるマメなところも、笑うと目の下に皺がくしゃっと入るところも、まっすぐに目を見て好きだと言ってくれるところもLE LABOのネロリの香りも好きだった。


 涙で視界がにじみそうになる。
 
 その端っこで、色をとらえた。

 スイートピーが1本400点で売っている花屋の店先に、一本だけ真紅の椿が並んでいる。
 
 もうすぐ夜になる。今日は売れ残ったのだろうか。なんだか私みたいだ、と彼女は思った。

 寒さに負けずに咲く、強くて静かな花。

 きれい。

 彼女はそれに手を伸ばし、目を合わせない白い髭のおじいさんに「ください」と伝えて包んでもらった。



 椿の花が冷たい空気の中で彼女の腕の中にある。

 ほんの少しだけ、目の前の浮き足立つような人々の中で特別な存在になった気がした。




 部屋の鍵を開けて中に入ると、昨日の夜出し忘れて玄関に出しっぱなしにしていたゴミ袋に躓いて転びかけた。
 がしゃんと音を立てたゴミ袋からは少し飲みすぎたビールの匂いがする。
 「はぁぁぁぁ〜」と、わざとらしいため息が出た。

 窓の外に目をやる。

 同じようなマンションの同じような窓がこちらを見ているような気がして、ここからの眺めが好きではない。

 椿に触れると花びらは驚くほど滑らかでひんやりとしていた。
 
 彼女は深く息を吸って吐き出す。

 泣かなかった。
 もう泣くのにも飽きたのかもしれない。
 あるいはにわか作りの虚勢で耐えているのだろうか。

 蕾を落としてしまわないよう努めて椿をそっと花瓶に生ける。
 暖房の音が静かに響く中、花をじっと見つめた。
 落ちそうで落ちない蕾がまるで彼女の心みたいだった。


 
 
 外はまだ風が強い。


 
 明日になったらもう少し前に進めるだろうか。
 椿が枯れる頃には、もっと強くなれているだろうか。

 そんなことを考えながら、彼女は出来合いで作ったような笑みをたずさえた。



 



Model:My friend KAORU
Ikebana &Photo &Write:かとうゆうか

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