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小林秀雄『作家の顔』

書かれたものの内側には、必ず作者の人間があるという信念のもとに、著者の心眼に映じた作家の相貌を浮彫りにし、併せて文学の本質とその魅力を生き生きと伝える。
青春の日に出会ったランボオ、敬愛する志賀直哉、菊池寛、個人的に深い交渉のあった富永太郎、中原中也、さらには中野重治、林房雄、島木健作、川端康成、三好達治等々、批評家小林秀雄の年輪を示す27編。

小林秀雄が嫌いだ。

もちろん、書いていることは分からない。それでも、文章の隙間からにおい立ってくる個性というか性格というか人格というか、そういったものは内容が分からなくても感じられるもので、小林秀雄の文章からは、どうも鼻持ちならない、他者を見下したエリート臭ようなものが感じられてならない。

本書でも、そういうものが感じられることがないわけではないのだけれど、案外嫌な気持ちにならずに読めるのは、志賀直哉や菊池寛、富永太郎や中原中也ら、小林が敬愛もしくは友愛の情を感じる人たちについて書いているからかもしれない。

菊池寛のユーモラスなパーソナリティを示すエピソードを、親しみを込めて紹介するところなどは、なかなか暖かみがあって良い。

また、ランボオについての評論も、相変わらず書いていることはさっぱり伝わらないけれど、小林がランボオを心から愛し心酔していることはよく分かる。

確かに、ランボオは晦渋である。然し、現代、ことに我が国に於いて、晦渋な作家を求める事が、どんなに困難であるかを考えてみてはいけないか。
(…)
言葉というものが、元来、自然の存在や人間の生存の最も深い謎めいた所に根を下し、其処から栄養を吸って生きているという事実への信頼を失っては、凡そ詩人というものはあり得ない。

「ランボオⅢ」

また、中原中也について書いた文章は、中でも群を抜いて心を撃つ。小林と中原の関係はよく知られたように複雑なものだったけれど、憎しみとか嫉妬とか、そんな簡単な言葉では表し得ないものを、確かに読むものに伝える。
何とも哀切に満ちた内向的でセンチメントなもので、小林の心から溢れ出た言葉と感じ、ぐっと来るものがある。小林秀雄らしからぬ文章だけれど、(だから、か)とても良かった。

なお、小林のように友人としてではなく、人生の後輩として中原中也の破天荒な人生に随伴した吉田秀和が、若い頃の中原中也や小林秀雄との出会いについて書いたもの(『ソロモンの歌・一本の木』に収められている)は、吉田の品格が感じられて、その香雅な味わいは忘れ難い。

奇しくも、小林秀雄と中原中也との若き日の因縁を描いた映画『ゆきてかへらぬ』(根岸吉太郎監督)が公開されるようです。観てみようかな。


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