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エルヴェシウス『精神論』


刊行当初激しい批判を浴び教会に断罪された『精神論』は、人間知性が生まれつき平等であることを説く。フランス国外でも読み継がれ、功利主義のベンサムをはじめ多くの思想家に影響をあたえた。精神の本質についてさまざまな論点を提供する本書は、今日なお読者に多くの考えるヒントを与える。

西洋の哲学書を読むなら、哲学の歴史というか流れを理解しておかないとなかなか厳しい。

エルヴェシウスがどのような思想を打ち出したかは、それ以前とそれ以降との流れを知った上で初めて理解できる。

西洋哲学史に全く昏い僕には、なかなか手強いテキストだった。何か言えることもないので、印象に残った点をいくつかメモすることに留める。

人間存在の基盤は身体と感覚器官にあるとする唯物的発想が、エルヴェシウスの出発点になっている。この唯物論的人間観は、観念論がメインストリームの西洋哲学史では異端だと思うのだけれど、先行する思想家がいるのだろうか。

人間は個人的快楽を最大化するために思考し行動する、というエゴイズムドリブンな人間観。これまたかなり耳慣れないものだけれど、エルヴェシウスのこの人間観が、マルキ・ド・サドに影響を与えたのでは、と、訳者の一人である菅原多喜夫さんは巻頭の「訳者からのメッセージ」で言及されている。

またこの、徹底した利己主義はやがて合理主義へと繋がり、アダム・スミスからベンサムへという流れの中にエルヴェシウスの影が差していると、これも菅原さんの文章にある。

個別存在に先行する観念的なものを認めないところから必然的に、人間の個性や倫理や才覚は、後天的な獲得形質だとエルヴェシウスは言う。環境や政治体制によって人はかたちづくられる、と。

だから、教育が大事なんだ、というところで擱筆となった。明らかにルソーと響き合う。もちろん、不協和音も交えつつ。

だいたいオオザッパに、そんな感じで読みました。


二十年以上にわたるお付き合いの菅原多喜夫さんが、コツコツと一人で発表する当てもない翻訳をされているのを、尊敬の念で見ていました。

時折翻訳文を送っていただき、拙い感想をお返しすることもありました。もしかすると僕の疑問や質問が、この翻訳書の何処かに薄っすらその痕跡を残しているかもしれません。

日本の古典文学とフランス啓蒙思想とを比較して論じる文章をネットに上げておられて、在野にこんな知性が、と驚いたことも懐かしい思い出。時の流れにそのサイトも失われてしまいましたが…

そんな見上げる畏兄・菅原さんの翻訳が、別の方との共訳という形で世に出るようになった経緯は伺っていませんが、僕にとってはこの書は菅原さんの長年の努力の結晶であり、大いなる達成であることは揺らぎません。

どうか多くの人の手に取られ、読み解かれて行きますように。


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