『出会いを求めて―現代美術の始源【新版】』李禹煥

直島の李禹煥美術館で買い求めた一冊。美術館で手に取った時に、読みたい、読まねばならない、今なら読める、という直観が沸き起こり購入。その直観は外れなかった。

李禹煥はもの派の理論的中核を支えた表現者だった。とは言え、全ての藝術的なムーヴメントがそうであるように、「◯◯派」と括られたアーティストが一枚岩であるべくもなく、もの派という概念は、あくまで李禹煥というアーティストの輪郭をなぞるために必要なもので、李禹煥をもの派という鋳型に当て嵌めて理解するのは本末転倒である。

この本を読み通して、李禹煥という表現者の特異な個性がより明確に把握できる、名著。

論旨は多岐にわたり複雑なので本書を要約することは僕の手には負えないけれど、いくつか僕が読み取ったポイントを記すと、まず李禹煥の世界観、身体性の理解はメルロ・ポンティに多くを依っている。李はポンティを西田幾多郎と並べることで批評的に理解しており、李の主観的にはより西田に接近していると思われるが、僕にはポンティの身体論を巡る李の思索の展開がとても面白かった。

李は、近代=人間中心主義を徹底的に批判する。藝術創作においても、作者の主観を具象化するための活動を全否定するところまで、李の近代批判は徹底されている。

作者中心主義批判を貫いて、作らない、という立場へと至る。自然にある石や、すでに整形された鉄板などを加工することなく並べるというスタイルは、自己の主観を具象化するという藝術家の専横への、革命的叛乱なのだ。

しかし当然、次のような疑問が沸き起こる。ならば何故、人は、李は、表現活動を行うのか?

この著作は、そのことを李自身が思索する過程が克明に記録されている。時には理論的抽象的に、時には他のアーティストへの批評という具体的な表現で。

結論的な部分を少しつまみ食いすれば、藝術家とは、自然と人間、客観と主観という近代的二項対立を乗り越えるための、「場」を創生するもののことである、と李は辿り着く。

この「場」において、人は他者と出逢う。(名前は出されないが)マルティン・ブーバーの『我と汝』が出逢う場。藝術とはそのような場を創り出す営為であり、藝術作品とはそのような場であるべきだ、という。

そこに辿り着いたことによって李禹煥の活動は深化し、作品の存在感もまた深いものとなっていく。単にものとものとを奇矯な具合に組み合わせてみせた、という知的モダニズムの枠を超えて、李の作品が何か深いものを湛えているように観るものの心に染み入ってくるのは、そういった李の思想的遍歴に支えられている。

これ以外にも、現代美術について考えるための重要な示唆、ヒント、提言が様々散りばめられていて、スリリング。読み終えて、アートについての理解、認識が大きく揺さぶられる。

本当に素晴らしい読書体験だった。そして読み終えて、また直島へ行きたくなってしまう。この本を読んだ上でもう一度李の作品に出会い直したい。

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