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『天職』という言葉の火の粉

先日、銭湯で湯船に浸かりながら、隣に鎮座している大学生たちの就職活動に関する論辨を謹聴していました。

彼らの話題はもっぱら、「自分の天職がわからない」でした。
自分も同じ時期があったなぁと追憶していると、もうその問題は「解決済」と思考のテーブルから下ろしたことを思い出しました。

その数日前に原田マハさんの『本日は、お日柄もよく』という小説を読んで、仕事が人間をつくり人生を変えていくことを追体験しており、母校である高校から講演の依頼が来ていた自分にとっては旬な話題でもありました。

ということで、甚だ僭越ながら備忘録的に僕の意見を書き記しておきます。

いきなり直球の結論を書きますが、僕の意見としては「天職が分からないとか言わずに、黙って働いてみる」です。

この正解のない問題の根源は「天職」という言葉そのものにあると思っています。自分の性分に適合している仕事を「天職」という言葉で片付けるが故に、今の仕事が天職かどうかを無意識のうちに推し量っているのではないかと思っています。

貨幣制度の誕生が富の尺度を生み、富を持っているか持っていないかが貧富の格差になったように、「天職」という価値観の誕生が、仕事上の貧富の格差を作ったと考えています。

そのため、「天職」に就いている人は幸せで、就いていない人は不幸だというのが、暗黙の了解みたいになっている気がします。

Google検索で「天職 見つけ方」で検索すると、
・天職である3つの条件
・天職に近づく3つの方法
・天職を見つける6つのアプローチ
などなど、なるほどなと思う記事がたくさん出てきます。

例えば、天職である3つの条件として以下のような記事がありました。

1.才能:自分の才能が存分に活かされること
2.情熱:自分の欲求に適い、自然と情熱が注がれること
3.意味:その営みに自分なりの意味や価値を感じられること

(参考記事:グロービスキャリアノート「天職の見つけ方。3つのアプローチと天職に近づくためのマインドセット」

この条件が仮に正しいとした場合に、重要なことはこの3つの条件うんぬんではなくて、この3つを誰が判断するのかということだと思っています。特に1番目。

仕事の成果というものは、自分よりも他人の方が客観的に正しく評価をすることができます。自分が見事な成果と認識していても、他人から見たら大した成果ではないことはしばしばで、その逆も然りです。

自分の能力がどれほどのものかというのは、仕事で成果を出してから初めて評価されるもので、成果がないものに評価は下されません。

つまり、天職かどうかなんて、仕事で成果を出して他人から評価されて初めて認知するものです。就職する前からいくら悩んでも答えは出ません。だから、とりあえず黙って働こう。

というのが僕の意見です。

働いているうちに能力が身について、能力が身につくと仕事が楽しくなって、仕事に価値を見出せるようになるかもしれません。働いてみないと分からないと思うのです。

当時はこの結論をもってこの問題には手を打とうと決めた記憶があります。

このnoteを書きながら、構造的類似性のある考え方はないかなと調べていたら、19世紀のドイツ哲学者であるディルタイが『歴史意識と世界観』の中で

「人間の存在は決して自分から規定されるのではなく、逆に世界の方から規定される」

大谷大学「きょうのことば」

という類のことを書いているらしいぞという記事を見つけました。参考までに貼っておきます。

今考えると当たり前ですが、大学で授業を受けてバイトとサークル(たまにインターン)しかしていない22歳の若者が、自分の性分に合う仕事を卒業して一発目の就職で見つける確率なんて、分母が天文学的な数字になりそうです。(少し言い過ぎ感はありますが)

「天職」という言葉に惑わされずに、とりあえず働いてみる。働いてみる中で、自分の性分に合うものが見つかるのだと思います。

なので、正しい問いは「自分にとっての天職は何か?」ではなくて「例え天職だと思わなくても、働くモチベーションをどう持つか?」かもしれませんね。

追伸:当時考えるにあたって読んだ気がする書籍たち。

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