自己喪失論

自己を喪失した者は他者を自己の代弁者として都合良く扱う。
自分で自分を語る事を拒絶し、他人を通じて自己を語ろうとするのである。
そこには他者の心を見ようとする意思などまるでなく、自分の都合の良く見たいように見るという自己防衛本能だけがただ存在している。
繊細で優しい自分を演じる事を通じて他人を騙す事はできても、自分自身を騙す事はできない。
自分で自分を見るという行為からいくら逃げようとも、無意識にある自分の目から逃れる事は決してできないのである。
自分で自分自身の心の中にバツの悪さを積み重ねていく事で自分というものがますますどうしようもない存在であるという認識が強まるだけである。
見たくない自分を隠す為に演じている自分、あるいは誰かに嫌われないようにする為に演じている自分、そして本当の自分。
自分という存在が主軸を持たずにバラバラに分離しているオフラインの人格ネットワークにおいて生まれるのは自己矛盾である。
白か黒か、善か悪か、曖昧なものを許容する事ができないある種の病が生じるのである。
本来であれば世の中というものは曖昧なものだらけである。
曖昧なものだらけの中を健全に生きていく人間というものは内側に絶対的な自己を有しているのである。
これはまさに「我思う故に我あり」という感覚であり、この感覚を内側に育てている人は曖昧なものを解釈する能力に長けているのである。
自己喪失した者は内側が脆弱なので、外側にある種の絶対性を求める。
これが曖昧さを許容できない精神性の始まりである。
自分で自分を理解していない、自分が定まっていない状態であるにも関わらず、自分という存在を他人に承認してもらう事で機能不全状態の自己を無理やり稼働させる。
本質的価値の獲得には目を向けず、手っ取り早く自己承認欲求を埋める為の付加価値の獲得に躍起になる。
このような神経症的な行いの中を生きる者を今風に一言で言うと「メンヘラ」になるのだろう。
他人に容易く左右される脆弱な自己には目を背けて、常に外側に責任を求める他責思考。
人間関係において責任というものは大なり小なり常に相互に生じるものである。
自分が持つ責任はどこまでか、相手が持つ責任はどこまでか、責任の所在を理解する事ができない。
これがまさに自他境界を無くしている状態と言えるだろう。
自分のテリトリーと他人のテリトリーが分からない。
そして自分に責任が無い部分に対しては全責任を負わなければいけないと躍起になり、肝心の自分に責任がある部分に対しては放棄するという非合理的な方向に向かうのである。
これは無意識に常に自分から目を逸らすための思考が働いているからだと言えるだろう。
自分から徹底的に目を逸らし、他人の事に介入してそこに夢中になっていれば自己喪失した惨めで頼りない自分に触れなくて済むのである。
しかしそこには自分自身に対しても他人に対しても愛情がないのである。
自己喪失の本質は愛する能力の喪失であると言えるのかもしれない。
愛が成立するには自分と他者の相互関係を有している必要がある。
双方が透明ではない実体の有した人間である事、すなわち自己が在る事、自己喪失していない事、アイデンティティとアイデンティティの相互関係が共鳴を起こすのが尊い愛であると言えるだろう。

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