委ねの境地

委ねるというのはただ単に受け身のようでその背景には主体性がある。
ただしこの場合、自分が相手に委ねたいというハッキリとした意思を持っている場合に限っての話だ。
委ねたフリをしておくとうまくいきそうだからというようなコントロール的な手法というのはまるで主体的ではないのでこれを混同してはならない。

委ねるというのは相手に対しての信頼がある。
委ねた事に対しての責任は自分で負うという覚悟がある。
そして何よりその委ねを通じて自己を何かしらの形で向上させようという気概を感じさせる。

何かに必死に抗おうとしている人間というのがいる。
時に自分も何かに抗おうと必死になる時がある。
しかしそういう時にふと涼しげな表情の人を見た時に何とも言えない焦燥感のようなものを感じる。
自分は実はとてもとても器の小さい人間なのではないかという疑惑が脳内に差し込んでくるのである。

この時の恥ずかしさたるや、穴があったら入りたいとでも言えるだろうか。
いやむしろ、穴に入る瞬間すらも見られる事が恐ろしくてただただ硬直して立ち尽くしたくなるようなそんな気持ちである。
これがコンプレックスというものである。

冷静に考えてみるとこのようなコンプレックスというものは誰しも大なり小なりあるものであると解釈できるのであるが、今まさにコンプレックスという傷が痛みを感じる瞬間にはこの傷を何やら特権意識を持った存在として認識するようである。
そもそもコンプレックスという傷を特権意識を持った存在として認識する事も含めてこれもまた誰もが持つ共通の感覚であるのかもしれない。

器の小ささというのは抗うという構えに現れる。
変えられない事に抗う惨めな自分を俯瞰するのがなぜかこんなに苦しいのか?というと圧倒的にダサいからである。
そういう自分というのはどうにもこうにもダサいのである。
このダサさを直視する事というのは何とも痛ましい。

抗わないという事は本来であれば非常に難しい。
ところが世の中には簡単に抗わないという構えを手にする人間がたくさんいる。
これは一種の防衛をしているからだと考える。
つまり自分を切り離して他人事にする事で感情が湧いてくる事を避け、それによって抗いたくなる気持ちを持たないようにしているのである。
ところがこの手法はあらゆる方向性に成長していくはずの力を根っこから断ち切っているのである。

この見極めというのがどうもの自分にはまだできないようだ。
誠に誠に悔しい事である。
相手が一種の余裕から生まれる委ねの境地にいるのか、あるいは感情を麻痺させる事で受け身になっているだけの自己喪失人間でしかないのか。

そして自分自身が主体的な形で闘おうとしているのか、あるいはそれが単に自動思考という症状に振り回されて抗っているだけに過ぎないのか、それさえも分からない。
自分が操縦席に立っているつもりでいたのに実は精神症状による自動操縦でしかなかった、自分は
症状の操り人形であるとは誰しも思いたくないものである。

ただ一つだけ言えるという事は答えは中庸にあるという事である。
人間の自動思考という症状はそんなに容易く破れるものではない。
そしてその普遍性を通じてそれを正当化しようとするのが人間である。
そこでそれを自覚しようとするという構えがある、これが自己の始まりである。

そもそもこの「自覚しよう」という構えという表現もまさに抗いの類ではなかろうか。
決して委ねてはいない。
そこには雑念が含まれていると解釈できる。

ありのままとは何だろうか。
ありのままとは何かを考える事それ自体が果たしてありのままだと言えるのだろうか。

こうやって思考が脳内で広がれば広がるほど分からない事が増えていく。
分からない事が増えれば増えるほど取り乱す自分がいて、そんなに自分に対してもまたダサさを感じる。

今ふとこうやって文章を書き連ねている際に気づいた事がある。
人生というのは予測不能な変数であると過去の記事でも書いてきたが、そこで不動の人間がいるとする。
その不動の人間というのはおそらく力を調整してバランスを取っているのである。
つまりこの委ねの境地というものは決して力が入っていないわけではないのである。
絶妙な力加減でバランスを取っているだけに過ぎない。

その当人の外側というのは強烈な変数で蠢いているが、その変数に対して適切な構えでもって常に同じようバランスを保っている。
それが側から見たら不動であるように見える。
悪く言えば何もしていないように見えるのであろう

そう考えると委ねの境地にいる人間の表面上の印象である"不動"の姿勢というものがどれだけ複雑で立体的なエネルギーによって維持されているのかという事に驚愕する。
これは自分というちっぽけな人間の存在を揺るがすような脅威でしかない。
しかし人間というものはこのようにして脅威を感じる事無しに進歩しないものである。

自分の価値を揺るがす脅威を感じた時に相手を破滅に追い込もうとする人間というのがたくさんいる。
その気持ちもいくらか共感できるような気がするのである。
実際、自分自身がそんな時に堪えようのない焦燥感に駆られているというのも事実である。

自動思考の自分としては脅威というものを避けたいと思っている。
しかしメタ認知的な自分はむしろ脅威を欲しているのである。
自分の価値を揺るがされたくて仕方がない。
自分には生命の危機、存在の危機、すなわちアイデンティティの危機が必要なのである。

今の自分が誰かに喧嘩を吹っかけたとして、それは相手を潰す為ではない。
むしろ喧嘩を吹っかけた自分に対して脅威的なエネルギーでもって応答して欲しいのであろう。
その応答というのは殴りかかってくるようなスタイルも想定できるが、何よりも恐ろしいのが「不動」の構えである。
自分という人間の激情を見ても尚、相手が不動である事、これこそまさに最上の脅威ではなかろうか。
これこそが委ねの境地であろう。

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之
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