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なぜ英語を学ぶのか
まるで真夏に後戻りしたようだ・・・いつまで続くのか、この暑さ・・・こんなことでは幼稚園の子ども達を外で遊ばせることもはばかられる・・・プール遊びを延長しようか・・・
さて、先週の記事、「小学校留学のススメ」は、なかなか反響があった。
特に、韓国の親の間で、「短期決戦」で英語の基礎を身につけさせるというスタイルが流行っているということについて、興味を持たれた保護者の方がかなりいたようだ。
一方で、「英語が出来ることは、どれくらい重要になってくるんでしょうか?」という質問をいただいた。
かねてから、一度は話題にしようと考えていた。
私見にはなってしまうが、こんな私も英語習得、英語学習についてはずっと関心を持ってきたので、この機会に少しお話ししておこうと思う。
テクノロジーの急速な発展により、自動翻訳の精度は確実にあがってきている。少し前までは、自動翻訳機能を使っても、明らかにおかしな日本語や、英訳が出てきたものだか、今やChatGPTなどを使えば、相当にまともな感じの翻訳が一瞬にして出てくる。
仕事で海外の人と文書のやりとりをしなくてはならない人からしたら、その効率は格段に上がったはずだし、海外旅行に行っても、メニューにスマホをかざすだけで、翻訳される機能があるから、昔のように、あてずっぽで注文をして、想定外に変なものが出てくることもない。(もっとも、本来はそれこそが旅のおもしろみでもあるのだが!)
私が子どもの頃に、ドラえもんが持っていた「ほんやくコンニャク」は、まさに夢のような世界であったが、この先、技術がさらに進歩すれば、耳に小さなイヤホンを装着して、外国の人と同時通訳で話せる時代もくるという。
つまりは、そういう時代を見据えて、「英語が出来ることの重要性」はいかほどのものかという話である。
私が今まで出会った人の中には、英語より日本語が大事だということを言う人もいたし、保護者でも「自分は英語できなくても立派に生きてきたし、それより大事なことがある」と言っていた人、逆に、とにかく早い段階で英語を話せるようにならないと取り返しがつかない、とばかりに徹底的に英語教育に没頭する人もいた。
それぞれの考えがあって、何が正解というのはないだろう。
かくいう私も、英語など小学生の頃はせいぜいアルファベットを知っていた程度で、仕事で使えるレベルのものになったのは大人になってからだ。
いわゆるバイリンガルの人を羨ましいと思うこともあるが、両親が日本人の家庭に生まれて、日本に暮らしていたとなればそれは高望みというものだろう。
そういう英語が出来たらどうだとか、出来なかったらダメだとかいう議論はそれぞれの考えで良いとして、私が自分の学校で、幼児期からの英語を一般的な幼稚園、小学校に比べて多く取り入れているのは別の理由がある。
時間をかけてコツコツ学ばないと出来るようにならないものに取り組む体験をさせるのに語学は適していると考えているからだ。
物事には、習得するのに比較的時間をかけなくても出来るようになることと、こつこつ続けないと出来ないことがある。
もちろん、どんな分野もそれを突き詰めていけば奥はとても深い。
料理人の友人が、自分のことを「料理なんてどこの家のお母さんもやるくらいのことだから大したことはない」と謙遜していたが、確かに、料理人として、高いお金をとってやる仕事の場合は長年の修行も必要である一方で、家の晩御飯をつくる程度であれば、ひと月もあれば何種類か作れるようにはなるだろう。
しかし、語学はそうはいかない。
もちろんバイリンガルに育つ環境にいれば、特に幼児期はあっという間というケースはあるが、一般的な日本人にとって、英語を身につけるのは相当な時間がかかる。
幼稚園児がインタープリスクールに通ってペラペラになっても、その環境をキープせねば、実は子どもは忘れるのも早い。
確実に身につけるには、長期的なコミットメントが必要だ。
一般的に言われるのは、「時間をかけて身につけたものは忘れないけれど、かけた時間が短ければ短いほど忘れやすい」
我々が受験で詰め込んだ知識を一気に忘れたのが良い例だ。
外国語を習得するには、単語もたくさん覚えないといけないし、文法もある程度勉強して、あとは聞くことも話すことも馴れなければならない。
思わず赤面してしまうような失敗にもめげずにやり続けるメンタルが求められるのも外国語習得のプロセスだ。
そうして学び、身につけることに語学は時間がかかる一方で、一旦身につくと、その後の見返りが大きいのも語学であると思う。
外国人の友達が出来たり、旅行に行って助かったりもそうだが、人生の選択肢が格段に大きく広がるのも外国語を学ぶ見返りだ。
例えば、うちの先生達にも良くいう話だが、幼稚園や小学校、教員資格をもった上で英語が出来たとすれば、日本に加え、「英語圏の学校でも働くことが出来る」
もっともローカルな資格がないといけない場合はあるが、それも、英語がちゃんと出来れば取得して、あとは、自分自身のライフスタイルで選択すればいいのだ。
特にIBスクール経験者の教師は引くて数多だ。海外のインターで働けば給料も高いし、休暇も長い。
そういう話をすると、誰もが文科省の英語教育指針を恨むのだ。学生時代、あんなに英語の授業を受けたのになんでこんなことになっているのかと。
私の周りにいる社長連中も多くが口を揃えていう。「英語が出来れば、うちも海外進出が出来たかもしれない」
私が海外の先生達と多く知り合うことが出来たのも、ニュージーランドに幼稚園を作ることが出来たのもまた、語学の助けがあったからだ。
日本でしか仕事が出来ないか、それとも、日本と外国、どちらも選択できるか、この違いは大きい。
しかし、それだけではない。こつこつ時間をかけて身につけることを何かひとつ成し遂げると、それを自分の自信とすることができる。
英語も色々な学び方があって、自分に合った学び方をあれこれ探求しながら、自分の現在地を振り返りながら次にやるべきことを考えて進められるようになれば、IBの目指す「学び方を学ぶ」ことにつながる。
「学び方」を身につけさえすれば、語学以外のどんなこともこの先の長い人生の中で学んでいくことができる、そういうライフスキルを学ぶのに語学はとても向いていると思うから、私はうちの生徒達にそれを経験してほしいと思っているのだ。
また、学校教育というものは、「実用性」ありきのものばかりではないし、そうあるべきでもない。
「教養」と言われるものを身につける、経験、幅広い知識を身につける場所が学校であるから、サニーサイドにおける英語教育について言えば、英語を通して、「学び方を学ぶ」ことや、忍耐強くひとつのことに取り組む姿勢、失敗を恐れずに立ち向かうマインドセットなど、それに付随するライフスキルを学ぶことも願いとしている。
小学生も高学年になればなるほど、恥じらいを知るのか、失敗を恐れるようになる。
しかし、いつも言うことだが、大人になってからの失敗のダメージに比べたら、学生時代の失敗はまったく無傷であるし、失敗こそが学びであるという考え方を子ども達にはしっかり植え付けて、どんなことにも意欲的に挑戦できる子ども達の姿をいつも期待している。
しかし私も願いが叶うなら・・・来世は「片親は外国人」なバイリンガル家庭環境に生まれたい・・・笑・・・出来れば日本人とフランス人のハーフとして!
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