筋トレの楽しさは変数($)を変えることで発見できる喜びである
筋トレはクリエイティビティです。
それも極め付きの。
筋トレの最大の魅力ってなんでしょうか?
前より1cm腕周りが太くなったことですか?
前より1k使用重量が伸びたことですか?
海でドヤ顔ができることですか?
僕はそうは思いません。
筋トレをすることで得られる最大の魅力は、仮説検証ができるという考え方だと思います。
これをやったらこうなる、
これをこれだけやったらこうなる、ああなる
という能力、スキルが養われるということだと思います。
つまり、変数を変えることで都度変化が生じてしまうということです。
トレーニングにおける変数は、”重量”、”セット数”、”インターバル”、”セットの組み方”、”動作スピード”、”回数”、”栄養状況”等々でおおよそ決まるわけですが、一つとして同じやり方というやり方は殆どなくて、ある変数を変えることにより、それが良くもなり悪くもなるというポテンシャルが、この変数というものには秘めているのです。
長年ビルダーは、今までの数々の実験の内に試行錯誤をした結果として、良いものをその人の理論として、良きものとしてその人なりに確率していくわけですが、これはくれぐれも、あの人がこう言っているからとか、こういうやり方が常識的ですよね?というルールというものは、長年ビルダーからしてみれば、もはやどーでもいい話なんであるのではと、僕は思うのです。
でも、ふつーに考えてみれば分かることで、その道に長く生息していればいるほど、自ずと思考や実験、いわゆるトライアンドエラーのような行為を繰り返し、永久の筋肥大に向かって邁進しているので、そこには大なり小なりのその人なりの色というものが帯びてきてしまうと思います。
これは、ボディビル雑誌を読み漁ってみると分かると思いますが、数々のレジェンドビルダーは各々、独自にその人なりの理論、方程式があって、一般論からかけ離れて、変態とも言われるほどの境地です。
例を挙げると、あの”合戸の親父”
彼といえば大胸筋、ベンチプレスといえば合戸孝二というほどに、常軌を逸しているのは事実だと思います。
あれを一般論にして、こぞっとフィットネスクラブ群が「このプログラムを自社のトレーニングプログラムに、採用します!!」つって組み込まれたところで、それはもはや実施側ができる人が限られますし、ジムエリアで瀕死状態になられても困るわけです。
だからこそ、そんな常人がやらないことを当たり前のように実行できる合戸の親父は、レジェンドたる所以ですし、ボディビルにかける思いが常人には計り知れない、愛と情熱を見出せれるのです。
そんな彼も、当たり前ですがベンチプレスのドロップセットや、Uバーのスミスマシン、可動域マットを考案できるまでに、数々のご自身での、トライアンドエラーの積み重ねと行った背景があって、生まれたものなんだと思います。
それは、僕たちのトレーニングにおいても同様です。
変数を変えることで変化が分かるということですが、これはどんな些細なことからでもいいんです。
今までバーベルしかやってこなかったら、試しにダンベルでやってみるとか、
今まで最初にやっていた種目をあえて最後にやってみるとか、
今まで参考にしていたインフルエンサーが言っていたことと逆のことをしてみるとか、
嫌いな種目だけやってみるとか、(恐らく、やったことないでしょう。)
こういったある種の新体験を筋トレを通じて行うと、その先には今まで感じた事がない感情というものが呼び起こされる気がしますし、
僕も何度か経験がありました。
そこには無限の可能性が秘めており、ある種自分が発見をした自分だけの財産であって心地が良く、なんか今まで僕を縛っていた鎖の様なものが解けていく感じを体感しました。
今まで、あるひとが言っていることを、なんの疑いもなくただ黙々と淡々に行っていたものが、不器用ながら今日はこの変数を来月は、この変数をと、いうふうに新体験を意図的に入れることで自分なりの解となるものが、蓄積していっている感じが、病みつきになりそれが次第に、快感に浸るようになっていきました。
『自分の体なんだがら自分に責任を持てよ』
僕が普段から意識している言葉ですが、良くも悪くも自分というに生き物に対しての関心が僕を含めて、まだ甘いです。
なぜそうしたのか、なぜそうしなかったのか、という自問自答を問う機会が、昨今は少ない様に思えます。
有名どころのインフルエンサーがこう言っているから、というなんか、安易な考えだけでトレーニングをやっているのでは、非常に勿体ない事は周知の事実です。
自分の体の声を度外視して、だってあの人がこういう風に言っているから、と自分の体に対して、本当の意味で配慮がなされておらず、そこには無責任な感じの印象を持つわけです。
万が一、とある誰かさんのそのトレーニング方法で、自身の体に結果が出なかったら、金輪際用済みなんでしょう?
そこだけ都合よく、自分さえよければ感はすぐさま脱するべきでしょう。
最初から中途半端に、誰々さんの自分よりもでかい人がやっている、トレーニングメニューを軽く真似てみるのではなく、どうせなら完コピできるくらいまで、できるならそう言っているまでに至った背景までをも考慮した上で、その人を真似るという行為に初めて、意味を見出してくるのだと思います。
そんなどっちつかずなやり方だと、その人に対しても失礼だし、有限な我が肉体においても失礼極まりない感が拭えれません。
と、過去の自分の心境について、今思うことを書いてきました。
自分の頭で考えられた営みには何よりも価値がある
当時の僕は、自分の声に傾聴することなく誰々さんが言っていることを全て鵜呑みにしておりました。
当時のことを思い出すと、なんか自分が考え抜いたトレーニングメニューではないし、自分の体に向かって耳を澄ませていることもなかった影響なのか、その当時は全くと言っていいほどに、トレーニングが楽しくなかった事は覚えております。
なんか、良さげなことだけをつまんで、テキトーにそれっぽくそれなりに、やっている状況でしょうか。
当時は、自分で考える素材というものがなかったので、誰かに言われたことだけをやることだけで精一杯だったという印象です。
又、トレーニングにおける楽しさは、筋肉をつけることだけ、というある種の潔癖のような思いで、ダンベルやらに触れていたわけですが、
なんかトレーニングをただやっていると言いますか、やっつけ仕事みたいな、作業みたいな感じだったことも、そのつまらなさが恐らく起因しているのだと思います。
ところで、それとは反面的に現在はトレーニングを楽しんでいますが、そう言うのもやはり、それは変数を変える喜び、トレーニングという名の思考実験という要素も、トレーニングにおける楽しさの中に含まれる様な実感があるからなのです。
今までは筋トレ至上主義から、ある種の楽観的に、お遊びの要素も加わったことで、なんかエンジョイしちゃっているんどうぇーす。
で、実際に僕が現状で意識しているテーマは、全力で余剰分を一寸の隙すらも与えないというテーマで行っており、その為自ずとトレーニングメニューはフリーウエイト系を中心に構成されております。
いかに痛めつけるかというテーマで。
まだまだ現在進行形ですが、いかにきつく感じさせれるのかを、あの手この手でトレーニングを、いや鉄のバーを握りながら、苦笑いしながらトレーニングしています。
『ああ、今日もいたかったね、、と。』
そうすると、筋肥大をするという目的がいつしか、いかに殺傷を与えれるのかという、目的に自動的にシフトしてしまうので、トレーニングやっていること自体に喜びを感じれるわけです。
それが仮に筋肉が、つかなかったとしてもね。
僕の目下のモチベーションとするところは、筋肥大よりも痛みという物質的な痛みを欲しているのでは、と思っています。
痛みこそがこの上なく喜びである。
どうぜやるなら、トレーニングをする過程においても楽しめれる様になれれば、人生最高ですよね。
筋肉代行屋 J