腕周り40cmから語れる世界
あなたの腕周りは何センチですか?
日本人男性の平均だと言われている28cmでしょうか?
それとも45cm以上もの極太で、日々誰かをギャフンと言わせているそんな剛腕でしょうか?
そんな僕は1年前に最後に計測した時で、40cmでした。(今はそれ以上です)
トレーニングを普段からしている方は分かりますが、この上腕40cmを超えることがいかに難しいのかををよく知っていると思います。
他でもないこの僕もそう思う人の一人ですし、40cmを超えるのにどれだけ創意工夫をし、過酷な食事をしてその40cmに到達できる様になったのか、一応僕も、40cmという上腕を搭載しておりますので、言う資格というものはありますよね?
「腕周り40cmから語れる世界」
あの肉肉しい”筋肉の鎧”をどうやって獲得することができるのであろうか、
あの”大鉈”の如く太く、”馬の蹄”の様な立体感、”鈍器”のような迫力のあるあの逞しい”力こぶ”をどうやって手にすることができるのか、
と日々考えて僕は生きています。
それはただ脂肪だけで構成されている様な、のっぺらとした印象のある映えない腕ではなくて、腕に血管一つ一つ細部まで走り、皮下脂肪があるのか無いかという、減量末期のボディービルダーみたいな姿が理想的です。(イメージ的には孫ご飯)
もう、それはボデイビルダーなんですか?
僕が、目指すところはミスターオリンピアなんですか?と思うかもしれません
(年に1度、ラスベガスで開催され、世界各国からモンスターが集う筋肉の祭典)
それは分かりません。
今ではその境地が見えません。
ただ、僕がお伝えしたいのは純粋に筋肉を愛する身として、その良さをただただ自分が感じている思いや、価値観をお伝えできたらなと素朴に感じているまでです。
ボディビルダーは、年間を通して筋肉が1k、2kを増やすことを目的にし、日々の労苦な作業を無心で行っています。
食べたくもない卵を決まった時間に摂取する
食べ飽きた鶏胸肉を決まった量を調理する、
毎回、口にする物を1gとも違わずに計量をする、
凄まじいです。
この感覚は世間一般的に見たら非常に狂っていていると感じますし、
「そんなことより”バナナクレープ”食べたら、人生幸せじゃん!!」
と、目先の快楽に走るメンタルタフ性が皆無な帰宅部のJKには、到底分かり合えないでしょう。
人生を懸けて、自分の体を酷使し、たったワンナイトのために(ステージ、大会日)3ヶ月間もの間、そこにはロボットのように、
一切の感情に浸ることなく、ただただ無心として、目の前にある食材を着実に潰していく、
凄い覚悟を覚えます。
と、彼らは当然として、これらの行為を好き好んでいる訳ですし、それを生業として日々をやっている訳ですので、凄いとか僕にはできないかもって思う必要なんて無いのです。
だって、プロフェッショナルな訳ですから。彼らは。
ただのダイエットをして、夏になったら袖をまくるから、少しは腕を鍛えておこっかなぁーという段階であれば、そう思う必要性はないということです。
純粋にトレーニングを楽しんで、この夏を清々しく歩めれるということに目的があるのですから。
これを読んでいる方の大勢は、恐らくは筋トレとは別の仕事で日々を生きていて、そして稼いで、生業としているとは思いますが、
仮にこれを読んでいる方が8割型、ボディビルやってますとのことであれば、
それはそれで光栄ですね。
実は、このアカウントが非常に暑くて熱くて厚かったんだ、と感じるほか無いでしょうか(苦笑)
もし、そうだとしたら今後の僕の活動は今以上に筋肉色一点張りの方向性も厭いませんでしょう。(笑)
しかし、その様な展開にはなるとはまぁー考え辛いとは思いますので、自分も含めての職業ボディビルではない人が、どうこれらの事象から学ぶことがあるのかということを考えていきたいなと思います。
一般人が筋トレに何を見出すのか
「中途半端が一番気持ち悪い、であるならば、いっそ最初からやらなければよし」
これに尽きると思います。
中途半端というものこそ、愚かなことはないと思いますし、僕は平均的とか、味気ないというのは、一番避けて通るところです。
好きでも嫌いでもない、ただのなんでもないやつ、
良くも悪くもない、平々凡々で、人畜無害な生き方をしていることに非常に違和感を覚えます。
そこには、誰かに迎合させて丸め込まれて、何かを妥協しているという感覚が強く僕自身には映るのです。
一生懸命ではなく、絶えず人の目を気にしながら、おどおどしながら人の顔色を伺う、そんな当時の僕の様な生き方はもう辛いです。
その生き方には、何かを燃焼して日々を生きている実感なんてものは当然ないですし、ただ何もなく、後味が悪く結果としてそれは不完全燃焼で終わってしまう。
やるせなさ感、自分という人間すらまともに生きていることができていない、
そんな当人には、日々は楽しく生きているんだという感覚はあるのでしょうか?
慢心の笑みで、今を生きていると言えますかね?
当時の僕には、そのようにはいられなかった。
自分の人生に責任を持って生きていくことができなかった、
誰かの意見、物差しで、自分の生きる軸足を決めていた、
こんな惨めな生き方は、当然あってはなりません、
自分で考えた頭で、考えた末の行動には何よりもの価値があって、そこには過去の私も未来の私にも繋がりが生まれる訳ですが、
でも、他人から与えられたことだけで判断する生き方は、どうでしょうか?
そこには自分という人間の物語性が一切繋がりませんし、何よりも日々の充実感に差が出てくると思います。
例えるなら、”年末ジャンボで6億円”当たっちゃったとかは、まさにこの感覚に近いと思います。
そこには自分という人間的な物語性が全く、その年末ジャンボとはなんら関係ありませんし、そこには外的要素が強くて、もはや自身で扱うことができるコントロール下にありません。
制御不能です。
原因がわからないので、それが幸せなのかは本当の意味では幸せではないと思います。
だって当たっちゃった訳ですから。ちゃったんですから。
でも、この幸せではないという感覚ですが、自分の物語性から考えたらという定義であれば、という話です。
別に年末ジャンボさんを毛嫌いしているわけではありません。
その6億円で、今まで心に悩んでいたコンプレックス群を一掃できるかもしれません。
“結婚”もできるかもしれません。
“夢のマイホーム”なんてのも持てるかもしれません。
ですが、人生を考える上で、その6億円で自身の可能性を叶えれる”きっかけ”になるかのしれませんが、その6億円が当たったという結果が自分の人生において”全くの無関係”であるということは理解して頂きたいのです。
僕という個人的な繋がりがないんだということです。
だって仮に当選したとしても、それはただの自慢話になることがオチでしょう。
「俺、6億円当たっちゃった。」
それをいうだけなんです。それだけがわかることなんです。
6億円当たったからって、”上腕が40cm”になんてなりゃしないのです。
6億円当たったからって、”シュワちゃん”になりゃしないのです。
ただのきっかけとして、ポジティブに好意的に、”まぁ少しは、気が楽になったな”くらいでいいと思います。
くれぐれもこの”有り金で株式投下して、一気に世界のビリオネアに名を馳せるんだと思い至るのには無理があるというそんな感じです。
で、話しを筋トレに戻しますと、
「上腕40cmに至ることができた、この僕に敬意を表せよ」
先にも述べましたが、殆どの人がこの40cmという大きさに達することなく、我が人生を終える人が多いと思います。
それだけ世間から見たら、希少であることは間違いありませんし、そんな40cm越えの当人らもそんなプライドを自負しています。
俺だけにしか見えない世界がある、
俺だからこそ、40cmになることができたのだ、と。
そんな意気揚々に言葉を交わす彼らですが、確かにそうだと思います。ご説ごもっとです。
それだけ崇高な結果があるのだから、まずは俺という人間に敬意を表してくれと言わんばかりの態度が伺えますが、
僕自身も凄くこの気持ちに同感します。
先ずは、敬意を表してくれと。
この40cmを超える尊い結果を残した肉体を宿したのが、他でもない俺という人間なのだ
すなわち、俺という人間が尊いのだ
という感覚でしょうか(苦笑)
ちょっと傍若無人感は、凄まじいですが、このくらいの感覚の方が人生生きていて楽しいと思います。
それにこういったある種の若気の至り感も、年齢的に限定的な限りがありますので、、。
でも、先輩後輩じゃないですけど、その道の既に先に行っているその道の先人や玄人に対しての、少しは絶対的な敬意はあってもいいのかなぁと思っています。
逆に世間が少なすぎるのだと思います。
先ずは、その玄人に対しての人間そのものを絶対するのではなく、
その自分よりも、何歩かすでに先進している人であるんだ、ということに対しての、絶対的な敬意を先ずは持った方がいいのだと。
その上で、その人全体(人間的な部分)を敬ってもよし、
聞いていくうちに、こいつは輩だと判断をし、不敬に働くもよし、
いずれにしても、先ずはその人がプロフェッショナルであるんだといった敬いというものに、昨今のトレーニング界隈では少し欠乏しているのではないかと感じます。
このアカウント名でもある、”筋肉代行屋”
玄人達が言いたくても言いづらいことを、僕がこの様に代弁してみました。
別に僕は玄人ではないですけどね。
先ずは、どの分野でもその道を先に、歩んでいる人に少しは敬意を表したいですね。
筋肉代行屋 J