提唱したい概念「自己否定感」
日記のように、眠る前に少しだけ文章を書き残しておく。日記はその日にあったことやおもったことを書き残すものだが、このnoteなんかはその日に考えたことを書き残すものだ。
ぶっちゃけいろんなことを考えるのはやめたいのだけれど、やめられないとまらないかっぱえびせん。ところでかっぱえびせんってエビは入ってるけどカッパは入ってないらしいぜ。タイトル詐欺だよな。
自己肯定感とは?
これを読んでくれている奇特(危篤かもしれない)な方々は、自己肯定感とやらを、持っているだろうか? ぼくは持っていない。
おおむね、これがあると人生を幸せに過ごせるらしい。そういう意味では大麻と一緒だ。
一緒なわけねえだろ。(情緒不安定)
で、これは完全に受け売りなのだけれど(なぜなら自分では持っていないからだ)この自己肯定感ってやつは、おおきくわけて、条件型と無条件型にわけられるらしい。
はやい話が、「俺には〇〇があるから、俺は生きてもいい!」と思うものと、「〇〇がなくても、俺は生きてもいい!」と思うものってわけだ。
あろうがなかろうが生きてていいわけねえだろ!
というのは卑屈にひずみまくったぼくの意見なんだけど、多くの場合、自分のなかの価値の条件に結び付けて、大企業でいっぱい稼いでるから俺は価値のある人間だとか、美人の彼女がいるから俺は価値のある人間だとか(この思考回路は男性学とかでもたびたび話題にあがりますね)いう風に考えることが、けっこう多いらしい。でもその条件によって自己肯定を行うのは、たとえば会社を首になったとき、たとえば彼女に振られたとき、自分を肯定できなくなる。だから自分の精神衛生のためという観点でいうと、無条件型の自己肯定感が望ましいというのだ。
しっかし、そんなもん無理難題じゃね? と、メンヘラ各位は思うと思う。そんなもん思えれば苦労はねえわな、と。できないことが目についたら否定しちゃうだろ、と。
逆向きに、そういう自己肯定感のない人間について考えてみる。
自己肯定感が「ない」ってどういう状態なの?
メンヘラ論では、多くの場合、「自己肯定感が低い/ない」って言葉が使われるんだけど、この自己肯定感がない状態っていうのは、条件型なのか、無条件型なのか、という話をしたい。今回の主題。
多くの場合、私はこんなこともできない、社会に適合できない、彼女がいない、キモくて金がない、というような、条件付きでの自己肯定感の低さとして論じられているんじゃないかな、と思う。だからこそ、彼女がいないことによって自己肯定感が低い非モテ男性は、彼女を作ることによって自分に生きる価値を与えよう(肯定?)とするわけだ。
つまりこのメンヘラ論における自己肯定感の低さっていうのは、条件型の自己肯定感がその条件の崩壊によって精神も崩壊するのと同様のことが裏返しにおこると考えると、その条件が改善されることによって精神も改善されるってことだと、ぼくは思っている。いわば、条件型の裏側。
しかし、ぼくはこの話に微妙に違和感を覚える。いや、他人の自己肯定感がどうなのかについてとやかくは言わないのだけれど、自分の感覚についてだけ話せば、ぼくの自己肯定感の低さは、そういう話ではない。
なんだ今回も自分語りじゃねえか。
自分以外にも共感してくれるひとがいたらいいなあ。
いなかったらしょんぼりします。
いたらにっこりします。
無条件型の「自己肯定感の低さ」
自分でいうのもなんだけど、ぼくは勉強ができる。頭の回転も、まあ、速い方だと思う。少なくともIQは平均よりは高い(ただ分野ごとにめっちゃ偏りはある気がする)。あと音楽も得意で、歌とかもそこそこうまいほうだし、絵も苦手だったけどなんか数枚書いてみたら上達して意外と見れる感じになった。心を通わせるのは苦手だけどその場で気の利いたことを言うのは得意なので、なんか学校ではコミュ強あつかいを受けていて、高校の三者面談で「.Qくんはクラスのムードメーカーとして中心でみんなを盛り上げてくれています」って先生に言われたこともある。
あの先生は見る目が全くないんだと思う。
で、そのうえでぼくは自己肯定感が全くないし、自分の価値をまったく見出していない。ここまで自分の得意なことや自分の長所を並べることができるのに、それでもなお、自分のことを肯定は全くできないのである。
どんな長所があろうが、どんなことができようが、知ったこっちゃない。
俺なんだから生きてちゃダメに決まってんだろ。
そういう気持ちで毎日を生きています。
死ぬことも後回しにしているおかげで、今日も生きている。 ――「ADHD自由律」より引用
自分の能力を高く評価することと、自己肯定感が低いことは両立する。自分の自己肯定感のなさは、もう自分が〇〇ができないから、みたいな条件付きのものじゃないのだ、と最近思うようになった。無条件型の「自己肯定感の低さ」というものが、この世には存在すると思う。ぼく以外にもこういう意識の人間がいるかはわからないけれど、ぼくはこれを「自己否定感」と名付けて、流行らせていきたいと思っている。
自己否定感=無条件の「自己肯定感の低さ」
何かができないから自己否定に陥るのではなく、無条件に自己否定をする。
偏差値があろうが金があろうが彼女がいようが関係ないのだ。俺のヘラを侮ってもらっちゃ困るぜ。
という、自己肯定感の低い人間についてのちょっとした記述と、「自己否定感」という言葉を定義してみたよ、みんなはどうかな? というようなお話でした。
まあ、どっちが不幸か、みたいな話はまた別の機会に、という感じだ。とりあえずぼくからみた認識が、なんとなく一般的でないように感じられたからここに記しておこうと思った。
ただ、なにかができるようになって救われる、という光明すらも奪われているわけだから、救うのが難しい精神状態であることは、間違いないと思う。ぼくと、ぼくに共感してくれたひとたちは、さて、ここからどう救われていけばいいのだろうか。ぼくには、まだ、わからない。もちろんだろ。わかってりゃこんなアカウント作ってない。
ほんとうに、何がそういうこじらせたヘラから救ってくれるのだろう。
たとえば、宗教とかかな。
――あるいは、大麻、かもしれない。
かっぱえびせんではないと思う。
余談
ただ、書きながらちょっと思ったんですけど、この自己否定感ってやつ、
もうそれ
「絶望」でよくない?
――わかる。