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死ぬということについて


よく、看護師とか偉い誰かが「死ぬ前に後悔すること」について色々言われていることは、みなさんも見聞きしたことがあると思う。

かく言う私も看護師だ。
しかもホスピス病棟の看護師。
“死”をたくさん取り扱っている病棟だ。


ホスピス病棟で働き出して、産休育休も含めると4年くらい働いているだろうか。
学生の頃からホスピス病棟で働きたくて、そのために転職もした。

その方の貴重な、残された時間を、希望を見失わないようにスタッフと本人、家族と一緒に考えて、生き抜くサポートしていくということに本当にやりがいを感じている。
人の人生に触れさせてもらい、人生勉強になっている。


ある時、知り合いに「産まれる時も死ぬ時もエネルギーを爆発させるでしょ?産まれる時はいいエネルギーだけど、死ぬ時は最後の力を振り絞るから、あまりいいエネルギーではないのでないか?(そのエネルギーに影響されるのではないか)」みたいなことを言われたことがある。

その時は「確かに!」と思った。
だけど最近、でも、と思う。
その話で言うと、“死ぬことはとても悪いこと“みたいじゃないか。

”死“なんて生きている者に等しく訪れて「食事をしたら排泄物が出る」くらい当たり前のことなのに。(これしか例えが見つからなかった)

そもそも起きている出来事はとてもフラットなもので、それを「これは良いこと、これは悪いこと」と割り振ってるのは自分なわけで。


さて、冒頭で綴った「死ぬ前に後悔すること」だが、大体それを見た時、後悔しないようにそこに挙げられていることを、きちんとやっておこうと思うものだろう。

でも、それって本当に可能なのだろうか。
私は困難だと思う。

足りないもの、できなかったこと、そういう、欠けているものを探し出そうとする時、限りなく列挙できると思うから。キリがないこと。果てしない作業。

では、どうしたらいいのか。
ここで必要なことは、受容する力だと思う。

出来なかった自分を受け入れて、許す力。
これは日常生活でも大変役に立つ力だ。


とは言っても、どうにか自分の中で理由をつけて、納得できないと前に進めないというのもあるのかもしれない。
受け入れざるを得ない状況になるのかも。
現実に抵抗し続けることは辛いことだから。

キューブラー・ロスも最後の最後には受容できると論じている。(死の受容モデルで、余命宣告された時、否認、怒り、取引、抑うつ、受容の段階を踏む)


人は最期まで希望を持つことができる。最期まで成長することができる。
“自分”として一生を終えるまで、そういうふうにいられるなんてありがたい。


おばあちゃんも友達も、私が知らない、私を紡いでくれた大勢の人達も、患者さんたちも、今は天国で笑ってくれてたらいいな。




追記
これを書き終わって読み返していたら、鼻の奥にお葬式の独特の匂いを感じた。百合の花とお線香が混ざったような匂い。
「そういう風には思っているけど私には何もできないよ」と伝えるとその匂いは消えた。誰か患者さんが来たのかな。


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