フランクファート「我々が大事にすることの重要性」

Frankfurt "The importance of what we care about"
同名の論文集(1988)に収録。6節構成。以下は3節までの内容。

1(導入:問題意識)
哲学の伝統的な探究
①何を信じるべきか〔what to believe〕(認識論)
②何を為すべきか〔how to behave〕(倫理学)
上記に加えて、何らかの事物が当人にとって重要であるような種類の動物〔creatures to whom things matter〕たる人間の実存〔existence〕に関する、主題的・根本的関心にかかわる第三の探究分野を立てることができる。すなわち、
何を大事にするべきか〔what to care about〕*
*「大事にする」という訳語は、早川の論文における示唆(p.263)に倣う。以下本ノートでは、「ケア(する)」と「大事にする(こと)」という語を交換可能な仕方で使用する。

2(倫理学との問題意識の違い)
・〈人が何を大事にするのか〉と、〈人が一定の状況下で何を行うのが最善であると考えるか〉は密接に結びついている。したがって、第三の探究分野は価値判断や行為に関わっており、その点で倫理学と似ている。
・倫理学の主要な関心は、他者との関係/正と不正/道徳的義務、といったものである。それに対して、第三の探究分野の関心は、自分自身に関して何を為すべきか、ひいては、我々にとって何が重要〔important〕であるのかといったことである。
・我々が大事にする対象は、倫理的要請や道徳的義務だけではない。我々は、個人的な計画〔personal project〕、個人〔individual〕と集団、理念、といったものも大事にする。そうした理念は必ずしも倫理とかかわらない。たとえば、家族の伝統に忠実である/数学的真理を追求する/一定の鑑識眼をみにつけるといったことは、道徳と直接関わらない理念である。
*〔多分、倫理と道徳をあまり区別せずに使用していると思う。文脈によっては、道徳は他者への義務や正義に、倫理はより広く生き方全般にかかわる、という区別がされることもあると思うが、ここではそういった区別はあまり意識されていないと思う。〕
・以下、概ね、「道徳によっては、我々が何を為すべきか/何が我々にとって重要なのかを完全に決定されることはない」……という論点が、いくつかの観点からいろいろな仕方で述べられる。省略。論点はともかく、従来の倫理学における問いが、何が道徳的に正しいかというものだったが、それはフランクファーとが関心を向ける、何が我々にとって重要かという問題とは区別されるべきだ、ということ。

3(ケア概念の素描)
重要性概念の原初性/分析不可能性。たとえば、重要性を、それが生む差異〔difference〕によって分析しても、すべてのものは差異を生むのであり、重要なものは「重要な」差異を生むものだ、と補うことになってしまい、循環に陥る。
・ケア概念は、〈人が、自らの人生や行いにおいて何を為すのかにかんして、それに照らして自分自身を統御するところもの〉という観念と、部分的にかさなる。〔換言:Xをケアすることは、Xに照らして行為を統御することと、部分的に重なる。〕しかし、ケア概念は、表出する行動パターンと常に一致するわけではない(習慣や非随意的な規則性による行動パターンもある)。
・ケアの本質は、ある特定の仕方で自身を統御することにある。これは行為者性と自己意識を前提とする。というのも、統御しているかどうかは能動的であるかどうかにかかっており、かつ、ここでの能動性は反省的なものだからである。自己統御において、行為者は自身に対して〔to〕何かを為すわけではない。むしろ、自身と共に〔with〕何かを為す。〔ちょっとよくわからない〕
・何かを大事にしている者は、いわば、その何かに賭けられて〔invested〕いる。彼は自らをケアの対象に同化〔identify〕させ、それによって、ケアの対象の盛衰から影響を受けてしまう者へと、自らをしたてあげる〔makes himself vulnerable to losses and susceptible to benefits depending upon whether what he cares about is diminished or enhanced〕。彼はケアの対象に関係するものに自らを関係づけ、それに特別の注意を払い、それにしたがって行動を方向づける。彼はケアの対象へと自らを捧げる〔devote〕
・ケアは、一方では欲求や好意〔liking〕と、他方では信念や価値判断と、とりわけ時間的な特徴において、異なっている。何かを大事にする者は、自分自身を未来を持つ者として理解している必要があり、その意味で未来志向的〔prospective〕である。
・何かを大事にする者は、自分の心理現象や自らに起こることを、自身の持続的来歴の要素として統合する。この統合は、人が自身と共に何を為すのか、そして自分の人生に何が起こるのかに対して持続的な関心をもつことを含意しており、またそれによって含意される。
・ケア概念は統御概念を含意し、統御概念は行為の安定性や一貫性を含意する。したがってケアは、ある程度の時間的持続性を前提とする(一瞬だけ何かを大事にする、という言い方は意味をなさない)。
・何かを大事にすることは、何かを大事にしようと決断することと同じではない。Xを大事にすると決断した人が、実際にXを大事にするかどうか(すなわち、Xを大事にしている人間であるといいうるような情動や態度や関心を獲得するかどうか)はわからない。人がそれに照らして自らを動かすようなもの全般を〈意志〉と呼ぶとして、意志の構造を解明するうえで、伝統的に決断や意志作用〔act of will〕に強い注意が向けられてきたが、実際には、ケアの方が決断や意志作用よりも、人の意志の構造の特徴に、深くかかわっている
・サルトルの有名な例。祖国のために戦うか、母親の看病に努めるか。この決断は、自分はどのような種類の人間でありたいか、に関する決断である。
・この例においても、重要なのは決断ではない。決断によって形成された意図を、彼は遂行できないかもしれない。遂行するにしても、自分のなかにある強力かつ継続的な自然的性向〔natural inclinations〕に抗わないといけないかもしれない。すなわち、どちらを選ぶのであれ、自分が選択したような種類の人間であることにとって構成的であるような感じ方・態度・関心を、自分は持っていないし、それらを自身の中に展開させることもできないのだ、ということを彼は発見するかもしれない。
・つまりサルトル的なジレンマを解決するために必要なことは、決断ではない(少なくとも、それだけではない)。むしろ、自分は何を大事にしているのか、どちらをより大事にしているのかを理解し、見極めることである。
・何かを大事にすることは、認知的・情動的・意欲的な傾向性や状態の複合体によって構成される。そしてこの複合体は、常に行為者の随意的な制御下にあるわけではない(⇒次節)。

いったんここまで。次節以後の話題は以下。
4(ケアと意欲的必然性〔volitional necessities〕)
5(ケアと合理性・愛・自由)
6(ケアの評価・正当化)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?