ウィギンズ「思案と実践理性」
Wiggins, D. 1975/76. "Deliberation and Practical Reason"
Needs, Values, Truth 所収(邦訳に該当論文は収録されていない)
ウィギンズはこの論文で、アリストテレス『ニコマコス倫理学』(三巻と五~七巻)の解釈を通して、実践理性に関する日常に即した描像を提示しようとしている。
・前半では主に、ニコ倫の「思案〔英deliberation、希bouleuesthai〕」がもっぱら目的ー手段の推論に関わるのではなく、むしろ目的を個別の状況に即して詳細化〔specification〕することにかかわるという論点、そして、そうした詳細化の過程を、一般的な規則の単純な適用として理解することは難しいという論点が提示される。
・後半では主に、啓発的だが難解なアリストテレスの行為論を見渡すための眺望点を提供しうるものとして、「新アリストテレス的な実践理性の理論〔neo-Aristoterian theory of practical reason〕」なるものが素描される。
以下、後半のneo-Aristoterian theoryなるもののメモ。7~8割翻訳だが、適宜端折ったり言い換えたりしている。太字強調も本ノートの執筆者による。
重要と思われるキーワードをあらかじめ列挙しておく。
① 実践的三段論法〔practical syllogism〕
(+大前提〔major premise〕・小前提〔minor premise〕)
② 関心〔concern〕/目的〔end〕
③ 状況把握〔situational appreciation〕/知覚〔perception〕
④ せり出した特徴〔salient feature〕
⑤ 詳細化〔specification〕
①について、大前提が一般的なもの、小前提が状況に即した個別的なもの/可能的なものに関わる、と論文の前半部分で説明がある。②について、関心は健康に対する関心とか、名誉に対する関心とかいったもので、大前提に主に対応する。③・④について、状況把握やせりだした特徴の知覚が主に小前提に対応するとされ、個別の状況や文脈に即したものであることが強調される。⑤について、個別の状況において、関心を実現するものとしての資格をもつものはなんなのかを具体的に思案する過程が、詳細化と呼ばれている。
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■実践理性の新アリストテレス的な理論(pp.229-234)
(a) 日常的な場面における行為者の「何を為すべきか」という思案は常に、個別の文脈に対する応答として生じる。(それは、たとえば意思決定理論の擁護者が想定するような、確率と効果を踏まえて期待値を最大化させる功利計算のようなものには似ていないことがほとんどである。)その個別的な文脈は、彼の道徳的あるいは実践的知覚に対して個別的かつ偶然的な制約を課すはずだが、その状況において関連する特徴〔relevant features〕が当人の目に入ってくるとは限らない。それらの特徴を見てとり、想像力を働かせるためには、高次の状況把握〔situational appriciation〕、アリストテレス的な「知覚aisthesis」が求められる。このような状況把握が必要であるという事実、及び、それらの状況のうちに関連する関心〔concerns〕の名があらかじめ刻み込まれていることはほとんどないという事実、これらの事実のうちに、実践的三段論法における小前提の決定的な重要性が存している。
(b) 関連する関心が同定されても、手段ー目的の推論を開始するまえに詳細化〔specification〕の段階が必要である。実践的推論において興味深くかつ困難な問題のほとんどは、この (a) と (b) の過程に存している。
(c) 関心の束を閉じた/完全な/不変のシステムとみなしてはならない。関心は、その本性からして、相互に相容れない要求を課す。関心が課す要求の重みは前もって固定されているとは限らない。また、関心が階層的に秩序づけられているとも限らない。むしろ、新たな状況に関する行為者の省察が、関心の階層や固定性を突き崩し、人生や行為の眼目に関する概念理解に変化をもたらしうる。
(d) 関連する関心が同定され、個別の状況のなかで関心が具体的に要求する行為が判明したとき、行為者は尻込みをして、全てを最初から考え直すかもしれない。目的を意図しているひとが常に、その意図によって導かれる手段を意志しなくてはならない、というのは必ずしも真ではない。この種の引き返し〔stepping back〕、及び関心の束の絶えざる再生成と再評価〔constant remaking and reevaluation of concerns〕の余地を残しておくことが重要である。関連して、①思案がプロジェクトを立てることによって実現できるような目的、②思案がそのなかで作動するような空間を画定する制約や関心、この両者を区別することも重要である。[ここで官僚的な組織における意思決定の話題がでているが、いまいちよくわからなかった]
(e) 我々は、予測や想像に関する有限な能力をもって、無限・不確定の偶然性に対峙する、有限な生物である。そのような生物にとって、我々の理念や価値の構造が開かれており、また未確定的であるという性格〔unfinished or indeterminate character of our ideals and value structure〕は、一方では人間の自由にとって、他方では実践的合理性にとって、構成的なことである。
(f) 思慮深い人[practical wisdom=フロネーシスをもつ人]とは、個別の思案の状況・文脈における重要性にふさわしいような、真に関連する関心と考慮事項を、最大限とりいれる人のことである。最善の実践的三段論法とは、その小前提が当人の知覚・関心・状況把握から導かれているものであり、行為者にとってその状況のもっともせり出した〔salient〕特徴を踏まえているものである。行為者が把握・知覚する状況の特徴は、それに対応する大前提、まさにその特徴をせり出させている行為者の関心を述べるような大前提、を活性化させる。ここで、関連する複数の相互に拮抗する実践的三段論法を比較する形式的な規準は存在しない。実践的三段論法が、ある特定の文脈で生じるものである以上、その大前提の評価は、それがその状況に対して適切な〔adequate〕ものであるか、つまりその大前提に制約をかけたりそれを無効化したりしうるような条件が成立していないかどうか、という観点からなされるべきである。実践的三段論法の評価は、本質的に対話的〔dialectical〕なものであり、該当の三段論法を生み出した知覚や推論と同質的なものである。[ちょっと最後の「同質的all of a piece with」の箇所がよくわからない]
(g) 行為者がある状況において関連するものとして持ち出す目標や関心は、多様で相互に通約不可能なものでありうるものであり、したがってそれ自体では決断[decision、意思決定という訳語が採用されることの方が多いか]を確定しないかもしれない。そしてこの事情は、行為の予測を目指す心理学的な理論が可能であるという考えに対する疑念を生じさせるかもしれない。しかし行為の哲学的探求において必要なことは予測ではなく、決断に至る過程を明確化することである。
■結論(p.237)
・次のように反論されるかもしれない--「結局重要なことは何もいわれていない。難問はすべてアリストテレス的な〈知覚aisthesis〉あるいは状況把握という観念のなかに押し込まれており、そしてその〈知覚〉においてはそれ以上の説明が拒否されているではないか」と。
・しかしそもそも、行為に関して科学的/経験的理論のようなものが成立する見込みがないのであれば、我々は、まさにアリストテレスが与えているような、個別の事例に適用するための概念的な枠組みを求めるべきである。
・その概念的枠組みは次のようなものを明晰化するものであるだろう。すなわち、行為者の関心と、行為者の世界の知覚の相互補完的な関係。行為者が実現しようとしている複合的理念と、世界がその理念に対して機会と限界によって与える形とを関係づける記述の図式。目的を欲すること・必然性を理解すること・自らを行為へと導くことの関係。
・これ以上の理論や一般的規則を求める論者は、科学への情熱からそうしているのではなく、実際の合理的な思案に含まれる思考・感情・理解におけ試練から、逃れようとしているのかもしれない。
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ウィギンズがconcernと呼ぶものは、フランクファートならcare、ウィリアムズならprojectとかcategorical desireと呼んでいるものと大まかに対応すると思われるが、その論点はまた別の機会に。
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