アンスコム「実践的推論」

アンスコム「実践的推論」
門脇俊介+野矢茂樹編『自由と行為の哲学』所収
『インテンション』の新訳の訳注(62)から導かれ、こちらに。

行為を導く「実践的推論」について、前提(理由)と結論、及び両者の関係がどのようなものかを、理論的推論との比較も踏まえながら明らかにする論文。
4節構成。節のタイトルは本ノートの執筆者による。論脈を追えていないところがたくさんあるが、とりあえずのメモ。

1節:実践的推論における前提と結論の関係
実践的推論の前提と結論(あるいは理由と行為)の関係を、デイヴィドソンは心的状態による行為の〈因果的産出〉として理解する。しかし、行為が一定の目的を目指して、あるいは一定の信念に基づいているかどうかは、それが因果的に産出されているかどうかによって決まるのではない。
・実践的推論の前提と結論の関係を、フォン・ウリクトは前提が結論を必然化する〈論理的強制〉の関係として理解する。そこで念頭に置かれているのは、理論的推論との類比である。しかし、実践的推論においては、前提が結論を必然化しない場合でも行為は産出される。また彼の見解には、彼自身が見出した「時間的隔たり」に関する難点が生じる。
・両者に共通するのは、実践的推論を何らかの心的な過程としてとらえる見方である。しかし実践的推論は、〈前提=理由〉が〈結論=行為〉を産出する〈心的過程〉では、そもそもない。実践的推論の「用途」はむしろ、「その根拠の観点から行為を評価すること」(p.197)にある。

2節:実践的推論における諸前提の内容
・前提=理由は、結論=行為がどのような点でよいのかを示す
(p.199)。
実践的推論の第一前提は、欲されている事柄に言及する。フォン・ウリクトの見解に反して、欲求そのものは推論の前提には登場しない(登場する場合もあるが、それはイレギュラーな事例(pp.201-202)である)。「目的は明記されなければならないが、目的の明記は前提と同様の身分を持たない」(p.204)。
・実践的推論のいくつかの実例。実践的推論の諸前提は、条件文の形式で表現可能である。

3節:実践的推論と理論的推論の異同
・問題提起:実践的推論が「推論」としての身分をもつのはいかにしてなのか?
・実践的推論の顕著な特徴:結論が必然的でないことがよくある。
・実践的推論と「命令法推論」の類比。命令法推論、及び実践的推論は、一連の仕方で結びつけられた条件文/仮言命題によって記述することができる。命題の内容や諸命題が結びつけられる仕方は理論的推論と厳密に同一であり(p.230)、この意味で、実践的推論に特有の形式を見出すことはできない
・理論的推論と実践的推論の相違は、各命題の役割の相違である。前者において導出される命題は「主張」されるのに対し、後者においては「指令の対象」となる。また、実践的推論における諸前提は、偶然的かつ未来に関わる事柄である。
主人にシニカルに従う奴隷の例。[p.237以後に見られる。ポイントがよくわからないが、自律性という観点から非常に興味深い事例だと思われる。]

4節:行為の「よさ」と概括的な目的
・行為者は、幸福・栄光・冨・権力等、漠然とした「概括的〔generic〕」な目的をもつ。これは人間本性に関する重要な事実である。
・「概括的」の対義語は「具体的」。これは「一般的」と「個別的」という概念対とは区別される。ある目的が一般的であるかどうかは、その目的が特定の個物や個人にかかわるかどうか、という観点での区別である。
・[二コ倫で、大前提が一般的、小前提が個別的と言われている、という主題と絡めて諸々指摘されているが、よくわからない。特に、アリストテレスの言う一般的ー個別的の区別と、アンスコムの一般的ー個別的の区別が本当に対応しているのかどうかよくわからない、という気がする。]
理論的推論において前提が真であることは、実践的推論において目的が「よい」ものであることと類比的である。前提の真理性は、理論的推論の妥当性にはかかわらないという意味で外的であるが、他方で、真理保存的であることは理論的推論にとって本質的である。同じ意味で、目的のよさは、実践的推論の妥当性にはかかわらないという意味で外的であるが、他方で、よさを保存することが実践的推論にとって本質的である。
・目的のよさは、行為者がもっているほかの[概括的な?]目的の観点からなされる。このことを理解するためには、行為者は、すべての目的を統括する最終目的をもっている、と想定しなくてはならない。
・「実践的推論についての批判は、それがよい行為の実行を導かない、ということであろう。行為がよいものとされるのは、もちろん、それが悪事ではないときであるが、目的が織りなす組織における最終目的の追求が妨げられるときには、それによって、その行為がよくないことが示されるのである。」(p.255)

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最後の「最終目的をもっていると想定しなくてはならない」という部分、根拠付けに疑問が残るが、おそらく、「無秩序な目的の束をもっていると想定しているだけだと、ある目的の手段を批判するときに別の目的を持ち出すことがいかにして可能なのかをうまく理解することができない。目的の束は一定の仕方で秩序づけられている必要があり、そしてその秩序において、全体を統括する最終目的が必要である」という話だと思うが、最後の部分(そしてその秩序において、以後の部分)が、本当かしら、という感じ(秩序づけられている必要がある、というのはそうかもしれないが)。このあたり、ウィギンスが「関心」に関して述べていることと比較したいところ。

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