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1219_赤毛のアン_寝れない時に本を読む

書きたい感じを思い出す。絵を描いていると様々なことを思い出す。描いていると絵が何かに見えてきて、何かに見えてきたものが別の記憶を思い出させる。文書を書きながら何かを思い出すことは、絵を描きながら何かを思い出している時と同じ場所を使って思い出しているのだろうか。それはまさに、記憶が変わろうとしている瞬間なのかもしれない。
一旦思い出すモードに入ると、見るものに次から次へと頭が反応する。脳みそがあったまる。ダウンしている時はこれが起こらないことに悩むが、正常時はこれが起こりすぎて寝れなくなる。シャワーを浴びてる時に目を閉じると絵みたいなものが様々に浮かぶ。寝れない時も同じことがずっと起きる。それで最近、寝れる本が見つかった。「赤毛のアン」。約一年前、岩波文庫の赤毛のアンを買って以来、積読していた。読み進められなかった。小説が読める時と読めない時がある。それで、寝れない時にページをめくったら読めることに気がついた。最近は、小説がやたら読める。本がやたら読める。面白い本を探すのが得意になりつつある。本屋に寄る。本を眺める。目をひく本を見つける。真ん中ら辺を開く。読んでみる。おもしろそう。目次を見る。最初の一文を読む。読める。後半のページを開く。読みながら別のことを考える。描きたい絵が思い浮かぶ。違う本のことが思い浮かぶ。実行したいアイデアが思い浮かぶ。器を選ぶ時に似ている。階段を上がってドアを開く。右にも左にもレジが並ぶ。「いらっしゃいませ。」右の方に歩きながら、器を見る。手に取る。意外と軽い。一周する。ピンとくる器を発見。手に取ってみる。重さを確かめる。作りたい料理が思い浮かぶ。井筒俊彦氏「意識と本質」に本居宣長のことが書いてある。もののあはれ。ものと接したときに浮かび上がるリアリティ。美しい器から、料理が思い浮かぶ器。お客さんに見せたら喜んでくれるイメージが浮かぶ器。本を買う時も器を買う時も同じことが起きていた今年。

寝づらい日が続くことで、読書が進んだ。ある日、赤毛のアンが面白くなりすぎて、寝れなくなった。違う本を探す。夏目漱石「夢十夜」を思い出す。第一夜の途中で眠くなる。眠れる日が続く。

野良猫によく会う。いつも会っている野良猫に今まで会ったことがない野良猫がいると、何かが違う感じがする。
服が好きな友達に服を選んでもらう。服を買う。ワードローブが今まで違う感じがする。自分の中に新しい流れができている。
本棚を眺める。
今読みたい2冊。帚木蓬生氏「ネガティブケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」、ブレディみかこ氏「他者の靴を履く アナーキックエンパシー」。今まで買ったことがないタイプの本。新しい流れがきているのかもしれない。

本を買う前に適当に一ページ読む。華厳経を思い出す。事物が繋がり合い、部分に全体を見る。一即多、多即一。一文字一単語、一文に全体を表す情報が入っている。

「華厳経」でいちばん多く説かれるのは、微塵のなかに大きな世界が全部入り込んでしまうのだという考え方で、これが根底にある…米一粒を見ても、この米粒は米屋から買ってここまで運んだのであるが、それには米屋もいるし、問屋もいる、運送した人もいる、生産した農家もいる…米にかぎらず、どんなものも大変な関係のなかで空間的にも成り立っている。そのように考えると、一つのなかにあらゆるものが含まれているのだといえるのである…一のなかに一から無限数まで全部含まれているから、つぎの二が出る、三が出る、四が出るのである。

鎌田茂雄「華厳の思想」

自分の中に自分以外がしっかり入っているか。吸収され、自分を入れ替えているか。全体として感じが変わっている。停滞していないか。
パーフィットを思い出す。彼にとって、彼自身の本が他の人に読まれ、その人の記憶の一部となることで、死ぬことへの不安が和らぐと言っていた。自分が自分以外の存在と混じり合って成り立つと自覚する時、大きな力を得た気持ちになる。安心して立ち止まる力ではなく、転がっていける場所がもっとあることを発見する力。自分の網を見ながら、他の人の網の中を分けてくぐる。

「自分が編み出したと思っていたリズムも、実は昔からあったもので、そのことが分かったときに、モノづくりっていうのは何かが自分を通して過去から未来に通っていくだけだっていう風に感じたの。」

細野晴臣

パーフィットは華厳半ばで亡くなってしまったのかもしれない。言葉が一つの感覚器官のようになれば、何かが変わっていく気がする。初めは網で、そこからどんどんイメージを変えていく。

雑誌コーナーで、penの表紙が目に入る。パラパラめくる。今月は当たり月なのかもしれない。casa brutasもよくて思わず2冊買う。

penで細野晴臣氏の特集が組まれている。是枝監督のおすすめは「ケンタウルスの星祭り」。

Rosa Lisaはスランプで音楽が作れなかった時、日本に来たらしい。その後、chicken teriyakiとsaokoを発表。音楽家は音楽によって記憶を思い出すのかもしれない。頭の中がシャッフルされ、何かがきっかけで過去を思い出すときに、音がついてくる。井筒俊彦「意識と本質」に出てくる和歌の話とつながる。

創造性の本質が、思い出し方にある気がしてくる。思い出すという行為は、過去と現在と未来を同じ平面上に並べている。頭の中に電流が入ったときに、何と何がつながるか、どこの回路とどこの回路が繋がるかを眺める力。知覚の一部とも言える。インプットが限界に達すると、アウトプットの場を探し始める。酒井抱一とゴッホに、グルスキーがくっつく。それがもはや思い出す、と呼べるのかは分からないが、未来を思い出す、と言えるならそういう表現になるのかもしれない。思い出すことによって、未来と過去をつなぐ。

荘子は、自分が蝶の夢を見ているのか、蝶が自分の夢を見ているのかわからない、という。

それなら、「存在」は常に過去と未来の中間に常に存在している。よく考えると、言葉を使うこと、脳を使うことは、思い出すことだ。自動的にやっていることが思い出すことにあたるかはわからない。

けれど、思い出すことと考えてよければ、朝起きてから、夜に眠るまでの出来事は、思い出すことによって行われている。生まれてからそうやってきている。意識が宿った時にある記憶は、身体の記憶だけかもしれない。神経が通っていれば、使える。使っているうちに、脳の中の神経が増えていき、思い出せることが増えていく。思い出すことが減っていくと、最初の状態に戻っていく。創造性を発揮することは、思い出し方が上手くなっていくことなのかもしれない。いつかどこかで生まれた言葉が、自分の身体を通して思い出されていく。

未来で実現していることは、過去ではバラバラだ。部分同士が生成されつつあるが、繋がっていない。未来から過去に進むと、成立しているものは分解されていく。未来にとって、過去は未来だ。2025年はそういう方向性で進んでみたい。

河合隼雄氏の本に良寛さんの詩が引用されていた。

花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ。花開くとき蝶きたり。蝶きたるとき花開く。吾もまた人を知らず、人もまた吾を知らず、知らずして帝の則に従う。

良寛

物語は、ものがたる、物が語ることと書かれていた章のどこかにあった気がする。メモに残したが、何が心に残ったのかを覚えていない。もう一度読んでみて、禅の詩っぽいと感じるけれど、その時何を感じていたのかは思い出せないから、ここに書いてみる。これは、思い出し方を書いておくことだと思うと、ここは真っ白な余白で、広い良い空間に見えてくる。

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