日本の共産主義のはじまり――22年テーゼ
1917年にロシア十月革命が起こり、更にその後のロシア内戦の結果として広大なロシアの土地に共産主義国家が建設されました。
22年テーゼと呼ばれる「日本共産党綱領草案」はコミンテルン執行委員会議長ニコライ・ブハーリンによって起草され、日本共産党中央委員会によって翻訳されました。
ロシアで達成された共産革命は更に西のドイツ、チェコスロバキア、オーストリア、ポーランドに拡大し、東ではシナを中心に東南アジアや内陸アジア、日本および朝鮮半島への教育へと移行していきました。
22年テーゼはロシアの共産主義勢力であるボルシェビキ政権が、共産主義者、プロレタリアートによる一党独裁を目指した世界革命がどういったものであったを知る手がかりの一つになることでしょう。
コミンテルンが考えた日本の現状
コミンテルンは東アジアにおける日本の特殊性を考慮にいれています。これはあくまでもボルシェビキ政権側からの観点であり、日本の革命家たちの観点とは言えないかもしれません。
コミンテルンにとって日本の封建制度は攻撃の最大の対象でした。
コミンテルンにとって打倒しなければならない相手の最大のものが皇室でした。皇室を打倒しない限り、プロレタリア独裁は実現しないからです。
農村・中小企業に対するプロパガンダ
コミンテルンが日本の農村を正しく理解していたのかは疑問です。農村のイメージはロシアの農村からの類推であろうと思います。また、彼らにとって国家単位での現状などどうでもよく、迫害・搾取される農村のイメージというものを作り上げる必要がありました。
日本の農村で飢饉が実際にどのようなものであろうとも、過去よりも現在がより一層酷いものであり、これから更に将来になると、壊滅的な状況になるということをコミンテルンは宣伝する必要がありました。
日本の権力は、天皇・貴族・財閥・地主・中小企業のピラミッド構造になっているという点をコミンテルンは強調する必要がありました。
これに対して、全ての階級で反感感情(ルサンチマン)が芽生えていることを指摘し、このルサンチマンあるいは群集心理を利用することをコミンテルンは説いています。
民主化運動とプロレタリア革命論
普通選挙権と民主化運動が自由主義者の間で激化している点をコミンテルンは重視しています。
コミンテルンはこのような政治運動を利用して、より多くの人口を占める労働者階級と農民階級を闘争へと掻き立てるべきであるとしています。
経済恐慌は階級闘争の一つの重要な要素です。最近の用語ではショック・ドクトリンという言葉がありますが、経済恐慌が社会に階級闘争を引き起こすための意図されたものではないと断定することはできないかもしれません。
普通選挙といい、民主化運動を利用することを説いていますが、彼らが目指すものはプロレタリア独裁です。独裁体制を構築することによって新たなピラミッド構造をもたらすのです。
コミンテルンが作り出した日本共産党の使命
コミンテルン、つまりロシアのボルシェビキ政権の革命家たちが、日本の革命家たちにどのように行動すべきなのかの指南をしています。もちろん日本の革命家が現状を分析し、考察する要素は一切ありません。言われるとおりに国家転覆を行うだけなのです。
日本の共産党は財閥や貴族階級などを主敵としていますが、もちろん皇室の打倒も目的の一つでした。
共産党は日本においてソヴィエト(ドイツ語でレーテ、日本語で評議会ともいいます)を樹立することが最大の目的です。ちなみにかつて1930年代にシナの共産主義勢力のことを中華ソヴィエト共和国などと表現していました。
コミンテルンは大多数の農業従事者を中小企業などや財閥などの自由主義者との取り込み合戦を演じることを想定しています。
小作農の地主に対する反感感情(ルサンチマン)を利用して、自由主義者の弱点を利用することの重要性を説いています。
皇室転覆のためには自由主義者の民主化運動を傍観することなく、積極的にこれに関わり反皇室運動の中心的な役割を担うことを強調しています。
コミンテルンにとってスローガンとは政権奪取のための道具であり、そのためには自分たちとは相容れない政治運動すらも利用します。
プロレタリア革命とはどういったものか
ボルシェビキ政権にはロシア革命という成功体験がありました。労働者・農民階級を利用することによってロシア皇帝をはじめ皇帝派や自由主義者、穏健な社会主義者を悉く追放・虐殺していきました。
これにより、彼らは他の国家でもこのようなメソッドが通用することに気がついたのです。ソヴィエトの樹立とは彼らの成功体験故のものです。
農村に住む大多数の日本人を武装して、皇室、議会、財閥に壊滅的なダメージを与えることをコミンテルンは目論んでいます。コミンテルンは日本共産党を利用して、日本国内で内乱・内戦が勃発することを計画していたのです。
この点は繰り返し言及する必要がありますが、日本共産党にとって民主主義のスローガンは、皇室の打倒、国家転覆の道具に過ぎません。民主主義運動に積極的に参加する彼らは、最後には民主主義運動すらも転覆するつもりなのです。
これは現在の日本共産党についても、あるいは社会民主党などについても同じことが言えるでしょう。極左勢力のいう民主主義とは国家転覆を行うための、あるいはその国を内戦へと向かわせるための道具なのです。
政治的分野における要求
経済的分野における要求
農業の分野における要求
対外関係の分野における要求
コミンテルンの非共産主義革命改革運動の考え方
コミンテルンは、もちろん日本の中央集権的な指導体制を構築することを目指していました。このような体制は、そもそもが自分たちが打倒したはずの人々にレッテルを貼った構造でした。
第一インターナショナルから続くフリーメイソン系の国際社会主義労働者運動家たちの間での内部分裂である共産主義と無政府主義(マルクス対バクーニン)との対立はこの時代にも残っていました。現在の日本ではすでに無政府主義は絶滅に近い形となっていますが、これもマルクス主義運動の結果とみるべきでしょう。
反無政府主義はマルクス主義者にとって重要でした。革命運動を弱める最大の力の一つを同じ革命運動の無政府主義と捉えていた点は極めて重要だと思います。
共産主義運動とは、その国の独自の文化やその国独自の解決策の一切を禁じます。自分たちで問題を発見し、問題を解決してはいけないのです。これはすべての国際主義に通じるところがあります。
共産主義者にとって理念や哲学などというものは重要性を持っていません。共産主義者にとって労働者や農民のすべての反感感情とその言論は肯定すべきものです。彼らの革命的なエネルギーを削がないために、労働者や農民を利用するというのが彼らのスタンスなのです。
共産主義者あるいはコミンテルンにとって無政府主義者は最大の敵の一つですが、革命運動の担い手としては最大の仲間でもありました。第一インターナショナルから続く共産主義と無政府主義の関係性は非常に奇妙なものです。無政府主義者の中には激しく共産主義を批判するものも多数いましたが、マルクス主義者の方は、プロレタリア独裁実現のために、彼ら無政府主義者を最大限に利用して捨てることの方が重要だったのです。
自由主義陣営との闘争の手駒として日本共産党を作り上げたコミンテルンでしたが、最初の日本共産党はあえなく2年で解散しました。
その後、1926年に再び日本共産党が創設されましたが、繰り返し幹部が転向し、更に警察が内部に潜入するなどして摘発が行われ、最終的にすべての指導者が投獄される形で勢力は縮小していきました。
そして日本が大戦で敗れた結果、再び日本共産党は息を吹き返しました。
日本共産党を考える上で
日本共産党というものをどのように捉えるかという点において党の創設の理念となっていた22年テーゼの存在を無視すべきではないでしょう。現在の日本共産党も、当時と変わらない態度、つまり民主主義の重要性を説き、国民のあらゆる反感感情(ルサンチマン)を肯定するという方法論の意味を読み解く必要があります。
日本共産党は今もボルシェビキ政権の亡霊に取りつかれています。そしてここまで敢えて触れずにきましたが、このボルシェビキ政権は決して一般的なロシア人による政権ではありませんでした。
ボルシェビキ政権の大多数を占めていたのはロシアを中心としたヨーロッパ諸国のユダヤ人(アシュケナージ)でした。もちろん広く知られているように、カール・マルクスその人もアシュケナージのユダヤ人です。
共産主義を始めとする国際主義の多くが、それぞれの国の独自の文化や伝統を見向きもしません。しかし国際主義者の多くがユダヤ文化の影響を多大に受けたユダヤ教であるという点も見過ごしてはいけません。
このように考えるならば、必然的にプロレタリア独裁の本来的な意味が分かってくるのではないかと思います。