孤独上等!闇を照らすぼっちとなれ!
ぼっちにしか出来ないことがある
人にはひとりの時間が必要だと私は思っています。だからぼっちは悪いことではありません。むしろぼっちの大切さを知っているからこそいろんなことを大切にできると思います。そして孤独を知るということは人生における一つのキーワードだと思うのです。
明るすぎても暗すぎても何も見えない。大切なのはそのバランスです。そのためには光と闇の両方を知ることが重要なのです。
ちょうど「ぼっち・ざ・ろっく!」というアニメも始まったことです。少し話してみようと思います。
共働き一人っ子の日常
私はネックレスを付けています。これは妻にもらったものです。もう20年以上も前の話。ネックレスを今も付けている理由は私がぼっちで鍵っ子(かぎっこ)だったからです。
「鍵っ子」という言葉はもう死語なのかもしれませんね。小学生の私は鍵を無くさないように首からぶら下げて日々を過ごしていました。ネックレスが落ち着くのはその名残だろうと思います。
私は一人っ子で両親ともに働いていました。家に帰ると私を迎えるのは薄暗くて静かな空白だけでした。ですが私は寂しいと思ったことはありません。むしろ「今日は何をしようか」とワクワクしていました。
多重人格の形成
兄弟がいない私はひとりの間、様々な会話を自分の中で行いました。ほんの僅かに異なる考え方(例えば「私はそう思う」「私がそう思う」「私もそう思う」「私ならそう思う」「私でもそう思う」)の差異を考えることでそれぞれを人格化します。そうすることで自分の中の視点を増やしました。もちろんこれでは自分という枠を越えられません。そのために読書という行為で様々な作家や登場人物を通じて疑似体験をすることでその幅を深めることにしました。
そうやって自分の中にいくつもの人格を形成することで多角的な考え方ができるようになりました。例えばそれを「自分A、自分B、・・・、自分n」としたときに自分Aならこう考える、自分Bならこう考える、といった具合に。
個性の定義
こうやって考え方を分化していくと本当の自分とはどれなのだ?と思う方もいらっしゃるかもしれません。例えば自分A、自分B、自分Cがいるときにどの考えにも同じように重みがある場合、いったいどれが本当の自分なのでしょうか?
もし考えに強弱や優劣があるなら、より強いものまたはより優勢なものが本当の自分だと決めることができます。
ですがそれは上手くいきません。ある事柄の場合自分Aが優勢であったとしても、異なる事柄では自分Bが優勢になるからです。これは想像に難くないと思います。そもそもAもBも全て自分から派生した考え方なのですから当たり前ですよね。
そのため私は自分Aも自分Bも自分nも全て自分だというように考えてみました。その結果私はあるひとには自分Aで、違う人には自分Bでと態度を変えることになり、周囲から八方美人という印象を与えてしまいました。これは小学生の頃の話だったのですが、周囲に理解されずとても困りました。その結果自分は間違って生まれてきたんだと思うことも多々ありました。
自分の性格
誰とでも仲良くできる。人見知りで引込思案。皆さんは「自分はこういう性格だ」と言うことはできますか?
自分の性格はなんとなくわかった気になっているけれど、だからといって誰にでもそうかというと、家族や恋人、職場の先輩・同僚・後輩、全くの他人となると多少の違いがあるのではないでしょうか。
つまり大雑把に「活発」「おとなしい」ということはあっても細かな性格は条件によって変えられると思います。
私はそもそも性格は「やらないための意味づけ」でしかないというように考えていて、
昨日もおとなしかったから今日もおとなしい
ぐらいに考えるのが良いのではないかと思うのです。昨日までおとなしかった人が急に活発になったり、またはその逆だったりしたら「何があったのだろうか?」と思いますよね。
いいことあったのかな?ぐらいなら良いのですが、あまりに酷いと何か精神的な病気なのではないかとちょっと怖くなってしまいます。
ですが自分の中には様々な自分がいて自分Aはおとなしいけど自分Bは活発だったりするわけです。こういう違いを大切にして自分のキャパシティーを広げていくことが大事なのではないかと思うのです。
ただし、あまり極端な違いは表には出さないようにしましょう。みんなのためでもありますし、それが自分を演出する(だますとか嘘をつくとは違います。役割を演じる)ということです。
明日死ぬと仮定して
そんな私が起業の決心をしたタイミングは2回あります。1回目は会社を立ち上げたタイミング。この時会社の代表は妻でした。そして2回目は妻から交代して私が代表となった時です。
1回目の決心は2010年のこと。私は仕事で失敗しデスマーチを経験しました。心身ともに衰弱し、ついには病んでしまうことになります。そして休職し薬漬けの2週間が過ぎる頃一つの出来事が起こりました。
それは病院へ薬をもらいに行った時のこと。いつもは木曜日に行くようにしていたのですが、その時は予定が合わず、火曜日に病院を訪ねました。
するとかかりつけの先生はおらず、別の先生の対応となりました。
40分以上待ち、いざ診療となったのですが、杓子定規な会話をいくつかしただけで、ほんの数分で問診が終わってしまいました。
この時私の中ではこんな会話がなされました。
自分A:仕方ないよ。先生もたくさんの患者さんを見ているんだから。
自分B:どの患者でも丁寧に接するのがプロなんじゃないの?これは怠慢だよ。
自分C:別にどうでもええわぁ。どうせ他人じゃん。
そんな中ある考えを持った自分Dが登場します。
自分D:俺の時間ってその程度の価値しかないのかよ。。
ここで私は雷に打たれたような感覚になりました。そうだ、自分の時間っていつまでもあるわけじゃないんだ。こうやってふさぎ込んでる間にも着実に自分は死に向かっている。子供の学校や親の介護、自分たちの老後のこととかまだまだお金もかかるじゃん。嫁さんが心配してくれている気持ちにいつまでも甘えていったいどうするつもりなんだ。。
そうして私は現場へ復帰しました。ただし、ダラダラしがみついてやろうとは思いませんでした。3年という期限を決めそこで会社を辞めると決めて戻りました。戻ってからは、
自分C:どうでもええわ。知らんがな。
がとても役に立ちました。もちろん態度には出しませんよ。バランスが大切。
群への貢献
仕事に戻った時、私を気にかけてくれていたお客様にこれまでの経緯を話してみると「会社を立ち上げたらどうだ?仕事都合するよ」と言って頂きました。
ちょうど3年で会社を辞めようと思っていたところでしたので渡りに船です。3年間の間に会社を軌道に乗せられれば辞められる。これは楽しそうです。
ただ当時の会社は副業ができませんでした。そこで私は妻を代表にして会社を立ち上げました(当社が副業OKなのはこれが理由。やるなら自己責任でという意図があります)
この時私は「個」の仕事を追及しようと思いました。個でできる最大限の成果をだそう。そのため社員を採用するつもりはありませんでした。個人事業主。一人親方。それでよしと。
しかし数年後私はひょんなことから社員を採用することとなります。そして私はその中でも「個」を活かした働き方ができないか模索していました。
そんな時、あるアニメのセリフが飛び込んできます。
これだ!私は感動して鳥肌が立ちました。
「都合の良い言い訳」これが私が会社(社会?)に感じていた違和感の正体だったのです。社長も部長も先輩も部下も社外から来ていただいていた協力会社の方も全員がのべつ「都合の良い言い訳」をしていた(いる)のです。これで良質な仕事ができるわけがありません(できていたバブルという時代が異常だったのです)
このセリフに感動したことももちろんですが、このセリフを言わせているのは日本でも有数のクリエーターが集まった作品です。彼らが何を伝えようとしているのか。組織とはこうあるべきだと伝えようとしているのではないか。自分にそれができるかもしれない。そう考えるようになりました。
養われた多様性
2回目の決心は私が本腰を入れて代表となった時でした。起業をしたあとで別の会社に誘って頂き1年程勤めていたのですがその中で非常に面倒な人間関係に巻き込まれてしまい、陰鬱とした日々を送ることになりました。
そして私の中でまたもや会議が行われます。
自分A:なんだか皆に迷惑をかけてしまっているような。。
自分B:自分に力がないからだよ。これは成長するチャンスじゃない?
自分C:知らんがな。どうでもええわぁ。誰も助けてくれへんって。
自分D:もっと時間かけたら分かってくれるかもしれない。
そして新たな自分E、自分Fが登場します。
自分E:もし3年後に死ぬとしたらこのまま続けるかな?
自分F:起業した会社に本腰入れないって失敗から逃げてるだけだよね?
ガーン!私は大事なことを忘れていました。この人生という強制スクロールゲームは確実に死に向かって進んでいるのでした。何を迷っているのか。もし今事故に巻き込まれてその死に際に何を思うかといえば「やっときゃよかった」です。
そしてそれって怖いんだ。嫌われたら、失敗したらどうしようと考えているんだ。
ここまで気が付けばやることは決まったも同然です。
本気で「スタンドプレーから生じるチームワーク」をやってやろうじゃないの!
共感力と人間力
このように私はいろんなタイミングで幼少期に培った自分の中の様々な人格と会話をし、多角的な気付きを得ることができました。
もちろんそれまでの間に読んだ小説の作家や登場人物からも大きく影響を受けています。
そして何より実際に出会ってたくさんのお話をした方々がその人格に大きな影響を与えています。
読書は理論で出会いは実証といえるかもしれません。理論がなければ色眼鏡をかけた(しかもそれに気が付いていない)直観に従うしかなく、合う合わないで判断してしまいます(しかも体調に影響を受けたりします)実証に潜む様々な理由(原因)を知らずに判断してしまうとチャンスを掴むことはできません。
つまり私はぼっちで培った骨格の中にリアルな人との会話で血や肉をどんどんと吸収していったのではないかと思うのです。
もちろんだからといって全ての人を受け入れられるわけではありません。自分の中にたくさんの人格を持つことで「あれ?この人どこか自分にも似たところがある」と思える割合が高くなり、なぜそのようなことを言うのかということも理解しやすくなります。これが共感力ではないかと思います。
ですがこれは自分勝手とは違います。自分の思いどおりになるかどうかが基準にある人はよほどの財力やアイデア、カリスマがない限りはチームの足を引っ張ります。
だからといって自己犠牲の必要はありません。大切なのはこのバランス感覚。そしてTPOに合わせて適切に調整できるようになることが人間力に必要なスキルです。
十人十色だが所詮は人
十人十色と言いますが、ことビジネスにおいては何かしらの目的に向かって進むわけですから、ある程度の方向性は合わせていかなければいけないわけです。十色がよしとされるプロジェクトもあるでしょうし、統一感のあるプロジェクトもあるだろうと思います。ここでもバランスが重要となります。
ビジネスで過去の成功事例を参考にするのは有益かもしれませんが、そこに巧妙に自分の考えや主義主張、信念を混ぜ込むのは危険です。
ここで言いたいのは自分がそういう意図で発言をしていないか?この発言は何故するのか?というチェックが常に必要だということです。
チームとしての最適解は何か?その解をより良い解とするために思いつく限りの選択肢が出せているかどうか。考え方の多様性があればあるほど、そして状況による判断基準に妥当性があるかを客観的かつ多角的に見ることができればできるほど、より良い選択が可能となるは確率論的にも理解できることだと思います。
相手の事ではなく自分のチェック
自分の考えがどうということはつまり承認欲求がチームの最適解よりも勝っているという状態です。これは良くありません。そのためにも、
自分という人格を中心としたさまざまな人格の枠組みをできるだけ多く用意する
読書を通じてブラッシュアップ
リアルなコミュニケーションをとおしてその枠を成長させ中身を満たす
様々な課題を解決するためにそれらの人格で協議する
単なる妄想や自己中心的な我儘にとどまることなく、課題解決という目的意識をもってしっかりと成長させ、バランス感覚を持った発言をするようにすることで、暗闇を照らすぼっちになることができるのではないかと思います。
何を言うか vs 何を言わないか
様々な人とお話をさせて頂いていると「マウントを取る」ということを意識的に抑えられる人は一定数いらっしゃると感じます。これは「何を言うか」という行為に現れるように思います。言葉を選ぶという行動です。
一方で「自分はマウントしていない」と思っている人に多いのが「無意識のマウント」です。私は現在ここを考える時間が多いです。
無意識のマウントに気付くには自分が「なぜそういう言い方をしたのかを」客観的に観察できる能力が必要です。
これは「何を言わないか」という行為に現れると感じます。気になった人は自分が送信したメールやチャットを時間をおいてから読み返してみましょう。言わなくていいこと、相手のため組織のためと自分勝手な思いだけで発言していたら注意した方が良いかもしれません。
様々な問題を解決するために自分の中に仮想人格を作り、その人格と対話する。仮想人格の精度を高めるためにデータとしてのインプットが重要となる。
あれ?これって「デジタル・ツイン」に似ていると思いませんか?
まとめ
ぼっちを活用して自分の中にいろんな人格を作ろう
小説や物語でブラッシュアップ
リアルなコミュニケーションで中身を充実させよう
数年後に死ぬと仮定し、今何をしなければいけないかを考えてみよう
都合のいい言い訳をしない
自分勝手・我儘と自己犠牲のバランスを考える
常に自分をチェック 相手の事は大目に見る
孤独は心のデジタル・ツインの基本である
この内容は2022年12月9日のチャンネルユニコで配信します。